⑲
美和子が体の異変に気づいたのは、実家に帰省した数ヵ月後の―就職の内定も決まった―秋口の事だった。
全身、熱っぽく食欲がなく。ある種の匂いが鼻につき、嘔吐を催し。最初は風邪でもひいたのだろうか、と思い薬を飲もうとしたのだが、ふと、思い当たる事があり、やめ。
いつもつけている―けれど、最近はおざなり気味になっていた―日記をめくると、毎月順調なはずの月経が来ていない―飛んでいる―事に気づく。
逆算し、思い当たる事をあれこれ考えている内に、ある一つの事実に辿り着き。
美和子は青冷める。
…まさか、あの時の…?
実家に帰省した時の、兄の、俊の―、分身が、私のおなかに…?
まさか。
急いで妊娠しているか否かを自己流ではあるが、書物などを読んで判断すると、やはりそうであるような気しかせず。
美和子は、いよいよ青冷めた。
兄の分身が宿っているならば、とんでもない―あってはならない―事態で。美和子は即決で腹の子を処理しなければ、と判断しかけた時。
全く同時期に、恋人である香本悠介とも―彼に救いを求めて―仲睦まじくしていた事を思い出し。
あの―俊との、意に沿わない行為の後の翌日の―夜、悠介の部屋で彼と寝ていた時。
美和子は通常ならば、絶対にしない、ある行動を取っていた。
『…あっ、』
『どしたの? 悠介くん』
『ヤバ…、あれが、ない。今夜、来るの予測してなかったから、買ってなかった…。ゴメン、美和子。俺、これから買ってくる。ちょっと待ってて』
『―いいよ、なくても』
『はあ? 何言ってんの? 美和子、大丈夫? いつもなら絶対ダメって拒否んのに、どしたの?
ダメだから、俺、そんな無責任な事、出来ないよ…』
『無責任な事? どして?
大丈夫。危なくないから。安心して』
『…ホントにいいの? まあ、美和子はキッチリしてるから、美和子が言うんなら大丈夫だろうけど―。
もし、出来たら、責任取るよ。美和子と結婚する。それでも、いい?』
『うん』
あまり深く考えもせず―ただ自身が救われたい一心で―、いつもなら慎重な行動を取るはずの美和子が。
『美和子、もしかして彼氏が出来た? 大事な事教えてあげよっか? あのね…』
体温、毎日測った方がいいよ。測ってグラフにしといたら、危ない時が分かるから。彼氏がいるなら実践するべき女のたしなみ、だよ―
と。分かった? と友人から教えてもらった後、念押しされていたぐらいだったのに。
なのに、気に止める事も―余裕も―なく、どこか危うげに―開放的に―悠介を誘い、その夜が過ぎていった。
…あっ。この辺り―最近もだけど―、ちゃんと測ってないし、日記もろくにつけてない…。兄さんとの事があって、当分日記帳を開くのも―書く気にさえ、ならなかったから。でも、今振り返れば、あの頃が一番そうなるような時だった気が、する…。
もしかしたら、悠介くんの…?
それまで悠介が、その行為において無責任な行動を取った事がなく。絶対妊娠などするはずがない、と自信があった。けれど、今回に限り、その確信がなく。
腹の子を処理しようと一度は決心した判断―、心が揺らぐ。
悠介の子ならば、彼に報告し、相談しなければならない。美和子と学生結婚でもいいからしたい、と公言してはばからない彼は、彼女の腹に子が宿った事を知れば、きっと手放しで喜び、歓喜にむせび泣く事だろう。
けれど、もし、そうでないならば。
禁忌の結晶。誰からも祝福されない―この世に存在してはならない、人間社会の掟を破った、畜生の子供。
あの―褪めきった、冷たい双眸を持つ―兄の子ならば。
抹殺しなければならない。誰にも知られない内に、早急に。
けれど、病院に行く前に妊娠に関する書籍を読んだり、堕胎に関する勉強をしている内に、美和子の心に微妙な変化が生まれ始め。
小さな―まだ人間(ひと)の形をしていない―命が、自らの腹にしがみついているかもしれない。処理しようとしている母親の思惑に気づいているのか、いないのか、とにかく母の腹から堕ちないよう、懸命に懸命にくっついているかもしれない。
小さな、小さな、命。
その時、ふと、美和子は思う。
この―まだ人間の形を成していない―命が、私のお腹の中にいるかもしれないのだ、と。
香本悠介か、それともそうでないか、―父親が誰であろうと、今腹の中にいるかもしれない子供は、自身の分身である事に間違いはないのだ、と。それを処理するなんて、と。
私が守ってやらなければ、この儚い命は、あっと言う間に消えてしまう―。
もし、命が芽吹いているならば一人で―、未婚の母として生きていくべきか。それとも、兄に相談して実家に身を寄せるべきか。
『何かあったらいつでも帰ってこい。相談にのってやる』
帰省先から女子寮まで送ってもらって車を降りる際、自身の腕を掴み、耳打ちしてきた兄の言葉を思い出し。美和子は一瞬、弱さゆえに心が揺れたが。
いや、それだけは避けなくてはならない。禁忌の関係にある兄に助けを求めても、自身はともかく、生まれてくる子にとって良い影響があるとは、とうてい思えない。
では、一体、どうすれば…。
美和子が思い悩んでいる時。
香本悠介は、恋人の様子がおかしい事に気づき、ある質問を試みる。
「…美和子、どっか調子悪い?」
「えっ―」
「最近いっつも眠たそうだし。あんまりメシも食べないし。今だって、ほら」
こんなに暖かいし、と美和子の手を握りしめ、数秒後。やおら、話を切り出す。
それは、確信に満ちた声音だった。
「…もしかして、美和子、妊娠してない?」
to be continued