琵琶湖の東、湖東三山の西明寺へ紅葉を観に | kon-collineのブログ

四年前の2017年12月3日に琵琶湖の東、湖東三山のうちの金剛輪寺と百済寺へ紅葉を観にいきました。先日(11月28日)急に思い立ち三山のうち訪れていなかった西明寺へ紅葉を観に行きました。

なぜ急に思い立ったかというと18年間頭の隅にあった気掛かりなことが2ヶ月前にちょっとだけ解消したからです。


2003年に現在のあま市甚目寺から明治初期に安城市へ来た先祖が安城の農業の先駆者ということで市の広報誌に取り上げられたのですが、その際に私の父が甚目寺本家の次男であった安城初代が移住した経緯などを訊きに行き、歴代の先祖の中に切腹した者が二人いると聞いてきたからです。

切腹したのは誰、その理由は?

今年の9月、暇にまかせて本家より写しを取らせてもらった過去帳をもとに日蓮宗に改宗したおよそ500年前の初代から昭和までの先祖の名前を代順にまとめた表を作っていて気づきました。

過去帳とは月命日順に亡くなった者が記入されていて亡くなった順には記入されていません。しかし本家の方が算用数字で代順を記入されていたので亡くなった順はわかりました。最近はネットで元号に対応する西暦をすぐに調べられます。困難をきわめたのは名前です、旧字、異体字が多くて。


過去帳の写しは初代から昭和30年代の15代目まで記入されたものなのですが初代から江戸末期の先祖にも切腹したとの記述はありません。むしろそのようなことは過去帳には書かないものだと思い込んでいました。

初代の名前は無心敏頴(むしんとしひで)とわかりました。むしんはともかくとしひでのほうは読みが違うかもしれません。

代順の数字が振られていない戒名があり、その下に無心之父、無心之母と書かれた2名があったのです。

無心の父は永正9年8月21日(1512年)江州愛知城内自刃 享年67歳、無心の母も永正9年8月21日(1512年)同所自刃 享年53歳とあります。あま市本家で数年前に500回忌の法要をしたということなので符号が合います。


江州というのは現在の滋賀県のことです。愛知というのは愛知県ではなく滋賀県の愛知郡と思われたのでダメ元で滋賀県立安土城考古博物館にメールで問い合わせたところ学芸員の方から丁寧な返事をいただきました。確かに『江州愛知城』と読めますね、時代が古すぎて記録が残っていません。『愛知川城』と『愛知川館』というものは記録にありますが、とのこと。

それにしても切腹ではなく自刃とは、当時は戦国時代の最初期で頻繁に戦があったようなので城攻めにあい、「もはやこれまで」ということであったのか。

話を戻しますが西明寺の本堂では参詣者向けにお寺の方が由来を解説してくださいます。その方に訊いたのですが昔は寺の付近に多くの城があったと。この場合の城とは現在残っている天守閣のあるような城ではありません。家へ帰って調べたのですが、徳川の時代になって一国一城制度が定められ多くの城が潰されたと、江戸以前には全国に3000の城があったらしいと。


とまあこのような理由で先祖がお詣りしたであろう西明寺へ500年後の子孫がお詣りしたというしだいでした。

 

左に写っているのは西明寺の本堂です。

 

 

私の後ろの山に信長の安土城があったそうです。

 

滋賀県立安土城考古博物館です。

 

お二人とも戒名だけで俗名がわかりません。

 

無心さんは驚きの享年104歳(数え年)、妻の玉枝さんも驚きの享年98歳(数え年)。『 無心流釼法之元祖也 』という記述が。