どーも。お久しぶりです。はるかです(-ω-)。
実験がある程度ひと段落して、今論文を書いてて、さらに次の段階の動物実験のために倫理申請やら講習・実習・試験やらに追い込まれているとこです(*´Д`)。だいぶ余裕をなくしてたとこで、イチロー選手の引退のニュースを見ました。会見も全部見ました。イチロー選手の回答で、目が覚めたような気持ちになったので、今日はそのことについて書きたいと思います(´-`*)。
写真は一昨年フィラデルフィアに学会に行った時にキョージュに連れて行かれた試合。イチロー選手が打席に立っています。あの時は「早くホテル帰りたいのになぁ。。。疲れた(ノД`)・゜・。」と思ってたけど、今になってみると、連れてってもらって良かったな、と思います。ヒット打つとこも見れたし(´-`*)。
で、会見で目が覚めた回答。「人より出来るようになることは出来ない。秤はいつも自分の中にある。自分の限界を知り、ちょっとずつ超えていく」という言葉。
よく「人よりも頑張る」とか「人より2倍、3倍以上の努力を」って使われるけども、その言葉を聞くたびに「『人』の基準てなんだ?」と思ってました。人が1日でやれることの3倍を1日でやる、そしてそれを続けるって無理じゃないの?と。出来ると思うなら「人」の基準が相当低い。「人」を下に見過ぎじゃないか、と。
でも人より頑張らなきゃ、人より秀でなきゃ、という思いは常に私の心の中にあって、自分の周りの人と比較して「ここがダメだ、これもダメだ。。。」となってました。苦しんでいたからこそ、「人の倍の努力を」みたいな言葉にさらに苦しめられて、一体「人」とはなんなのか、と考えていた訳です。
一方で、逆に「人より秀でてる」と感じた瞬間には、その人を馬鹿にして下に見て安堵感を感じてました。「この人よりは自分の方が秀でているから大丈夫だ」という感覚でした。でもその安堵って一瞬で、まったく自分の自信にはつながりませんでした。その安堵をもっと感じて安心したい。だからもっともっと出来るようにならないといけない。人より秀でなければ不安でたまらない。そんな気持ちでずっと生きてきて、ここ最近「私はどこまで頑張れば不安が消えるのか」と考えておりました。
だって、頑張っても頑張っても、自分には限界があって、自分のやりたいように頑張ろうとすると脳みそが回らなくなるか、心身に支障をきたしてくる。でも上には上がいて、私はすべての分野で誰よりも秀でる、ということは出来ない。それならもうこの不安は消えないままなのか。これからの将来も「あの人と比べると自分は劣っている」という不安に苛まれてずっと生きていかなきゃならないのか。
もはや不安を消すには頑張るという行為以外の何かが必要なのだ、と。でもその何かが分からない。自分を認めようとしたって簡単ではないし、認めてしまったらそこで終わりなのではないかという別の恐怖がやってくる。
そんなモヤモヤを抱えながら見ていたイチロー選手の会見での言葉。
「人より出来るようになることは出来ない」
「人より頑張ったとは言えないが自分なりに頑張ったとは言える」
霧が晴れました。
そして気づきました。
人と比べて、人より出来るようになろうしてた私がどれだけおこがましかったか。
人より出来ると思って見下した瞬間の私がどれだけ醜いか。
「秤はいつも自分の中にある」
「自分の限界を知り、ちょっとずつ超えていく」
それがすべての答えでした。やっとわかりました。
私が探していた「不安を消す何か」は、人に目を向けるのではなく自分に目を向ける、ということでした。
自分に目を向けて、自分は頑張っているのか・限界を知ってちょっとずつ超えているのか、ということを考えてみたら、自分を褒めたくなりました。同時にやる気も出てきました。
私が人を見下すことがあったのは、自分の中のどうしようもない不安を消すためでした。見下している時はすごく不快な気持ちなのですが、一瞬不安が消えました。でも、会見を見てから、「見下せないと不安が消えない」という感覚は、基準がすべて他人にあったからなんだな、と分かりました。
イチロー選手の会見での発言を聞いた瞬間の、一瞬の出来事でしたが、私にとっての世界がガラッと変わったように感じます。
これからもたぶん、長年の癖で人と比べてしまうことがあると思うのですが、そのたびにこの言葉を思い出そうと思います。
特に野球が大好きという訳ではないけれど、歴史的な瞬間に自分の人生の時間が重なって幸せです。
イチローさん28年お疲れ様でした。これから草野球、楽しんでください(*´ω`*)。