世界は誰かの仕事でできている。
たまに、当たり前すぎて普段は見えていないものが急に見える瞬間がある。
今日はそんな事を考えながらつらつらと。
朝、蛇口をひねれば水が出る。
電車はだいたい時間通りに来る。
コンビニに行けば弁当が並んでいて、夜でも明るい。
道路には信号があって、ゴミはいつの間にか回収されている。
全部、誰かがやっている。
もちろん知識としては知っている。
でも普段は「水が出る」「電車が来る」「店が開いている」という現象として処理している。
そこに人間がいることをいちいち考えない。
世界は背景として動きすぎている。
たとえばパン一つだってそうだ。
小麦を作る人がいて、それを運ぶ人がいて、
製粉して、焼いて、包んで、また運んで、
棚に並べる人がいる。
そして僕はそれを最後に数100円払って食べるだけ。
消費者の担当工程が少なすぎる。
今では身近なスマホなんかになると、
もう誰が何をしたのか想像する気も失せる。
デザインから仕様、
半導体、通信規格、OS、筐体、カメラ、バッテリー、物流、周辺機器。
……得体のしれない技術が大量に積み重なって、
最終的には布団の中でくだらない動画を見ている。
人類の技術力の使い道として正しいのかは知らないけど、多分正しい。
仕事という言葉は、あまり楽しい響きばかりではない。
面倒で疲れるし、理不尽なことも、納得のいかないことも多い。
金のために惰性でやっているだけの仕事も当然ある。
それでも、その面倒な仕事の積み重ねが、知らない誰かの日常を成立させている。
自分の仕事は職業柄そういう側面が強い。それが面白いところでもあるけど。
自分が何かを作ったり、考えたりしたものが、
顔も知らない誰かの一日の一部になっているのかもしれない。
そう考えると少し不思議。
別に仕事を神聖視したいわけではない。
嫌な仕事は嫌だし、無意味な会議は多分無意味だと思う。
世の中には、なくなった方が全員幸せなんじゃないかという作業もかなりある。
それでも朝になれば電車が走っている。
誰かが日々点検して、管理して、運用している。
松屋でハンバーグが食べられる。
誰かが家畜を育てて、運んで、捌いて、調理している。
ありがたい。
世界は誰かの仕事でできている。
そして今日も、その壮大な分業社会の最終工程としてハンバーグを食べる。