『活気の渦の中で』



※道東・玉川庵での名物牡蠣そば


歳を重ねて身体に問題が起きるのは世の常。
最近は内臓を労わろうと、食材を制限しながら過ごし始めている。
グルテンフリーも含んだ、低フォドマップという、日本ではまだ認知度の低い健康法を試してみたり。
それによると主食は、小麦以外のお米か蕎麦が中心になる。

とある日。
徒歩で20分強の距離にある蕎麦屋のかしわ山菜が食べたくて、もっと近い中華屋と悩んだが、食べたい気持ちには勝てず歩いた。

日中でも寒さが厳しい時期になり、とてもスマホを見ようとは思えず、手をポケットに入れたままただ黙々と歩き続ける。
進む方向に目をやると、つんとした空気の中でまだ雪の積もらない湿った冬景色を、久々にまじまじと見たような気がした。

昔、毎日の通勤路では、確かに前を見て歩いていたことをふと思い出した。
今は暇をつぶせるスマホという便利物があるけど、そのせいで、無になることへの恐怖が大きくなった気がする。

少し前のこと。
並んだ地下鉄のホームで周りを見渡したら、私以外の全員が下を向いてスマホと対面していた。
もしその瞬間に恐ろしいことが起きても、誰も気づかない予感がして、その光景に一瞬寒気がしたのを覚えている。

話は飛んだが
私は蕎麦屋へ向かう道すがらすっかり無になり、思いがけず、自分と対峙する静かでいい時間となった。
気がついたら蕎麦屋は目の前に。
扉を開けた。

すると湯気が立った中で、お客さんが並んでいるではないか。

先日主人と伺った時は、私たち以外のお客はおらず、コロナ渦で大変だなぁと心配したものだ。
だがまるで別のお店のように、名前を書く欄が設けられ何組か既に待っていた。

待機中の家族は、立っている私を見て「ここどうぞ」と、席を大きく空けて譲ってくださった。
ありがたく座らせていただいて間もなく、私はアクリル版で仕切られたカウンターへ通され、かしわ山菜そばを注文。
振り返ると沢山のお客さんがいて、賑わっていた。

大声を出して喋る者などいない。
だが、程よくざわざわしていて、注文を受けた厨房で威勢よく呼応する様は活気があって、昔行ったお祭りを思い出した。

私は地元に残る沢山の神社のお祭りを巡るのが大好きだった。
そういう活気ある人混みの中で育った。

今はコロナ渦で、そんなことは許されることではない。

けど、いいか悪いかではなく、私はコロナの渦の中で翻弄されるより、活気の渦の中に居たいと思った。

かしわ山菜そばの温かいつゆを飲み干して、体中から湯気が出る。
隣のおじさんが、私の頭上にあるメニュー本を「ごめんなさい、失礼します」と持っていく様子に「どうぞ」と会釈しつつ、こういう時間を人々から奪ってはいけない、と思う。

コロナ渦が過ぎ去って、あとの祭りにならないよう、本当に大事なことに気づかないといけない。
活気の渦の中で。