東京に雪が積もって、もうじき1週間になる。
あの日は、ちょうどアルバイトの日で、朝から重々しい雨が降っていた。
雨降りの日は、外を見ずとも目が覚めた瞬間にすぐわかる。
窓際にあるベッドからは、雨水を派手に散らす車の走行音が聞こえる。
自転車で出勤するのは無理だと判断し、バスに乗ることにした。
玄関を出て傘を広げる。手袋をしていないので、柄を持つ手が寒くてたまらない。ふいに、雨粒が手の甲を刺す。いやに冷たい雨だった。
祝日の早朝だというのに、バスは混んでいた。人々のあいだに押し込められ、ゆらりゆられて目的地を待つ。人の波にたゆたいながら、ここはまるで小さな海のようだと思った。
最寄の駅でバスを下り構内を通って南口の地上に出る。ざんざぶりの雨のなか、てくてくと歩く。早朝の商店街は閑散としていた。バスのなかの混雑ぶりとはとえらい違いだ。
まもなくアルバイト先の本屋に着いた。
すでに誰かが来ているらしく、店内の電気はほんの2つ、3つ、申し訳程度に点いている。
開店前の店というのは、博物館にある動物の剥製に似ていると思う。クジラや恐竜やホッキョクグマなんかの、とびきり大きいやつだ。ひなびた温泉宿の廊下に突然現れる、巨大な鷹の置物にも同じにおいを感じる。
しんとした暗い店のなかに、なにか巨大で生々しいものがひっそりと横たわる気配がする。朝の苦手な私が早番のシフトに入るの、この感覚を味わいたいからだ。
たぶん今日はお客さんがほとんどこないだろうな、と思っていたら、案の定、午前中は暇で仕様がなかった。あまりに手持無沙汰なので、新刊の棚に面出しになっていた『なんらかの事情』(岸本佐知子/筑摩書房)を手に取る。
これがめっぽう面白かった。
初めて作品を手に取って、しかもその1冊をまだ読み終えてもいないというのに、すっかりこの人が好きになってしまった。うむむ。これが恋というものだろうか。
ふいに気配を感じて顔をあげると、いつしか雨は雪に変わっていた。
思わず感嘆の声が漏れる。おそらく今年の初雪である。
牡丹雪とまではいかないけれど、雨粒の大きさに比べ、なぜか雪片はいやに大きい。
人々はみな一様に空を見上げ、危なっかしい足取りで歩いていた。ガラス越しに、浮足立つ気配が伝わってくる。
雪国出身の身としては見慣れた景色のはずだけれど、それでもやはり心が踊る。
上京して8年。東京で雪を見たのは、これで2度めだ。
空は容赦なく雪片を吐き出しつづける。まるで壊れて調節がきかなくなった電化製品みたいに。あるいは誰かを罰しているかのようだ。
やがて小一時間も経たぬうちに、地面は白く染まった。
家に帰るころには一面の銀世界である。
ざくざくと足元の雪を踏み鳴らして歩く。たった数時間しか経っていないというのに、朝とはまるで違う景色である。
バス乗り場には行列ができていた。最後尾がいったいどこにあるのか見当もつかない列の途切れる先を懸命に探す。わずかな差で私の後ろに並んだ中年男性が、小さく舌打ちする。
その瞬間、思わず私は駆け出していた。
ぬかるみに足をとられながらも、どんどんスピードを上げてゆく。
どうしてか楽しくてたまらなかった。
跳ねるように、飛ぶように、ひたすら雪の上を駆ける。
途中、同じように駆けてゆく子どもと目が合った。小さく目配せをしてみる。まるでふたりだけの秘密を分かち合うように。
横断歩道には警察官が立ち並び、歩行者の誘導に忙しい。
道路にすし詰めになった車は、いつまでたっても動く気配がない。
あちこちであがる、感嘆とも悲鳴ともつかぬ大人たちの叫び声。
たかが雪が降っただけだというのに、この街はまるでテロでも起こったかのようなざわめきにみちている。
ようやく家にたどり着いた。濡れそぼって重たくなったブーツを脱ぎ、コートを脱ぎ、マフラー、靴下、タイツ、ワンピース、それらすべてを脱ぎ捨てて、思い切りベッドに飛び込む。
家の向いの駐車場の車が、どうやら雪で動かなくなったらしい。途方にくれた大人たちの怒号が聞こえる。やがて、それが諦めになり、車を動かすための掛け声に変わってしばらく続いたかと思うと、辺りはようやく静けさを取り戻した。
遠く、どこかで救急車のサイレンの音が聞こえた。
帝都はいま、かつてない混乱に満ちみちている。