アルバイト先の本屋に来たお客さま(男性壮年)に、
「村上春樹の『アイキュー84』ってある?」
と聞かれる。
IQ84…。おそらく、あまり賢くはない。
いとしさとせつなさと圧倒的な笑いの狭間で揺れまどうも、
それらすべてを押し殺して笑顔で売り場にご案内すると、
「おお、これだ、これだ」
笑顔で駆け寄った彼は、
「あったよ、アイキュー84の2巻!」
まるで勝利を宣言するかのごとく、手にした本ごと右手を天高くつきあげた。
周りにいたお客の驚きに満ちた顔。そして彼が手にした本とわたしの顔を交互に見つめて、まるですべてを悟ったかのような、間違って足元のナマコを踏んでしまい、ひどくバツがわるいような、そんな表情をする。
「ぶほっ」と遠くで誰かが噴き出す声が聞こえた。
うん、そうなの。
この生ぬるい視線の中心で、誰よりも羞恥心を感じているのは、きっとわたし。
間違っている彼ではなく、間違いを知っていながら、正せないこのわたし。
いそいそとレジに向かう男性客の後ろを、わたしはしずしずとついてゆく。
そして、ばらけてゆく、ぬるついた視線の数々。
本屋でよくある日常のひとコマ。