大阪府枚方市穂谷公民館に故糸川英夫博士の残した資料が | 公民館のためのデザイン

大阪府枚方市穂谷公民館に故糸川英夫博士の残した資料が

朝日新聞(2010.8.23)

「日本のロケット開発の父」と呼ばれる故糸川英夫博士(1912~99)。6月に帰還した探査機「はやぶさ」が目指した小惑星にも名前が冠された博士の足跡をたどる大量の資料が大阪府枚方市の公民館に眠っている。はやぶさの偉業を契機に、地元では記念館設立や展示の構想も持ち上がっている。
糸川博士の資料は段ボール箱で108箱分にのぼり、同市の穂谷公民館の一室に保管されている。日本で初めて発射に成功したペンシルロケットの模型や50~60年代に試作されたロケットの部品、博士所蔵の写真など様々。東大生産技術研究所教授時代に考案したとみられる宇宙基地のイメージ図もある。

公民館のためのデザイン-糸川英夫博士


関係者によると、大量の資料が枚方で保管されるまでには曲折があった。「過去に執着しない性格だった」という博士。晩年に捨てられそうだった資料を弟子の研究者らがあわてて引き取ったという。
ただ大量すぎて保管場所に困り、一時は博士の記念施設をつくる計画があった愛知県武豊町で保管。しかし計画は実現せず、99年2月に博士が死去すると、元東大技官の林紀幸さん(70)=東京都墨田区=が預かり、三重県伊勢市の資料館に置いた。
4年前に引き取りを申し出たのが枚方市穂谷区の前区長重村庄一さん(75)。長年、宇宙に興味を抱いていた重村さんは資料の存在を聞き、「子供たちが宇宙に夢を抱くきっかけになれば」と譲り受けたという。
重村さんは「糸川英夫記念館」の開設を目指してNPO法人を設立。資金のめどは立っていないが、「約60億キロを旅して帰還したはやぶさの活躍で再び博士の偉業に注目が集まれば」と期待を寄せる。枚方市の幹部も「はやぶさの話題もあって関心は高い。貴重な資料があれば展示に協力したい」と話す。(小池暢)


河北新聞ニュース(2010.5.1)

我が国で『宇宙ロケット開発の父』と言われている故・糸川英夫工学博士の遺品が、枚方市内の公民館に百数個の箱に詰められたまま活用されることなく保管されていることが明らかになり、関係者の間で「子供達が輝かしい未来が描ける社会を築こう」と、遺品の保存展示の場を枚方に建設しようとする動きが高まりつつある。

糸川博士の遺品は現在、枚方市穂谷の公民館に段ボール百数箱に詰められ、開封されることなく数年間眠り続けたままになっているという。遺品は博士の幼少期からの写真、論文等の生原稿、東大でロケット研究した際の記録や書籍、実物ロケットの部品等、国家機密に劣らぬ貴重な資料が残されているという。

遺品が穂谷公民館に保管されたきっかけは、同地区の重村庄一区長が数年前たまたま三重県伊勢の『二見浦賓日館』(明治天皇の母、英照皇太后宿泊建物)を訪れた際、同館の林紀幸館長(当時)と意気投合、話し込むうちに糸川博士の遺品を林元館長が保管しているものの、膨大な量で保管場所に困っている現状を知り、重村区長は『日本の糸川、世界の糸川博士の遺品』が何の活用もされないまま眠っていることに驚き、何とか教育的視点から「子供達に夢を抱かせるためにも有効活用出来ないものか」と思案し、とりあえず遺品をスペースのある穂谷公民館に預かり「活用はその後に考えたらいい」として、遺品活用に枚方市役所等と相談を重ねて来たが活用の目途は現在までついていない。

重村氏が遺品活用に頭を悩ませていたところ、親しい知人が「世界の糸川博士の遺品をこのまま眠らせるには余りに惜しい。枚方市にとっても遺品の保管展示場が出来れば、我が国で初めてペンシルロケットで宇宙への扉を開いた糸川博士の名で、全国へ宇宙の情報発信基地としての名が知られることになる」として理解者の協力を得、『未来に夢を持つ青少年を一人でも多く育てる会』の発足を現在準備中という。

糸川博士の遺品を重村氏に預けた林元館長は、ロケット研究に取り組む東京大学生産技術研究所に勤務、糸川博士の許で研究を重ねた末にロケット班長として最前線に立ち、平成12年の退官までに打ち上げに立ち会ったロケットは約430機に上るという、ロケット人生一筋に歩いて来た糸川博士の愛弟子の一人。

重村区長や林元館長の今後の計画は枚方市が宇宙への情報発信基地として定着するために出来るだけ多くの理解者に呼びかけ『糸川博士資料館』的建物を建設、ゆくゆくはこの遺品を叩き台として『体験宇宙基地の創設』まで漕ぎ着けたいとしている。

昨年は重村区長宅に宇宙開発事業団参与、大阪府大型児童館ビッグバン館長、日本漫画家協会常務理事等の役職を兼ねている松本零士氏も訪れ、遺品の活用法等の協議を重ねている。

糸川英夫(1912~1999)プロフィール
1935年東京大学工学部航空科卒~中島飛行機入社。九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)のほか一式艦上攻撃機など数々の飛行機の設計に携わる。1941年東京大学工学部助教授に就任。同教授。1951年東大生産技術研究所教授。脳波測定や音響学を研究し工学博士の学位を得る。その後、ペンシルロケットを開発、我が国の宇宙時代への道を拓く。1963年航空学国際アカデミー終身会員に選ばれ、1972年紫綬褒章、1985年勲二等瑞宝章受章。