「目の前に会ってる人がいるのに携帯いじらないでよ!!!」
カップルとかでよく聞くセリフ。
じゃあなんでいじっちゃだめなの?
それは相手のことが信じられなくなるからじゃない?
twitterは見られない。自分だってこんな長々とインターネットに文章を公開しているのに。
なぜかtwitterはできないのだ。
今対峙している相手に話している人が、同時に別のことをつぶやいている。
これって、どっちが本音なの?脳ってそんなに同時に、自分の発言を考えられるの???もしかして、どっちも本音じゃないとか・・・
私は、このブログには本音を書いているつもり。何か自分をかばったり、守ったりするためじゃないと自分では思っている。ここに書けない本音を暗にほのめかすようなつぶやきをしたくなる時は何度だってあるけど、心に秘めてここには書いていない(と思う)。心に秘める強さも、必要なんじゃないか。
こういうのを見ると人の深くまで見えすぎて嫌になる。いや、深いんじゃなくて、表と裏?二面性?浅いところが全部見えて嫌になる。人を信じたいのに、信じられなくなる自分が嫌だし怖い。
対峙している人の目の前で「つまんないw」とtwitterでつぶやく人はいないけど、対峙している人の前で「明日遊ぼー!♪」って別の人にツイートしてるのって「つまんないw」と同義語じゃないの?
それとも、別の人格の人がつぶやいてるのかね。
完璧に対峙している人と、ネット上の人の間に線が引かれているのか。
つぶやきっていうくらいだから深い意味なんてないものが多い。でも、その人の心の中がちょっとずつちょっとずつ開かれているんでしょ、それがちょっとずつ積もって、その人の本音とかが開かれてくる。
もちろん、本当に暇なときに本当につぶやいてる人もたくさんいると思うし、今まで「こんなんじゃ信じられないよ!」なんて思った人そんなにいないけどさ。
見えすぎるのがやだ。隠しているなら隠してほしい。
心の中のいろんな部分をちょっとずつ見せていかないでほしい。
でもつぶやくのなんて人の勝手。権利。表現の自由。
だからこれはただの私のわがまま!
こうやって思うのは自分が人を疑うような弱さを持っているからだ!
疑ったり陰でいうのは簡単だけど信じたり許すのはすっごく勇気とエネルギーがいる。
私、幸せなことに信じられる人はいるけど、それは自然にそうなったことで(家族とか、女バス12人とか山下先生とかね)、「心から信じよう」と自分の心と闘った相手は今まで1人かもしれない。何度も、信じられないと思ったけど、信じようってすっごく頑張ったら、疑う心がそのたびにどんどん薄まってきて、今は心から信じられる人になってる。
信じようって思うのってすっごくエネルギーがいる。そのたびにものすごく不安になって心がざわつく。私が信じても相手が信じてくれないんじゃないかって思う。でもそれに負けないで信じようって頑張ったおかげで、今その人のことが大好きだ。
今の私はまだ弱いしわがままで、考えすぎる。
だからtwitterはやらない見ないでいーや。
母にそういう風に話したら、「そういうの全部ひっくるめて、でも信じようって思える強さが持てればいいよね」だって。うん。そんな強い人になりたい。