誤審の話 | 米の心

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パリ五輪が盛り上がっていますが、柔道で誤審があったとのことで、少し話題になっていますね。

話題になっているのは、男子60キロ級で、永山竜樹選手がフラン・ガルリゴス選手に一本締負けをしたというもの。すでに審判が待てを指示していたのも関わらず、ガルリゴスが締め技をやめなかったことで、永山選手が落ちたように見えたところで、審判が一本決まったとしたもの。これに抗議をする形で永山選手は、礼を拒んでいます。

待てがあったにも関わらず、締め続けたガルリゴスに対して日本人から批判が出ているようで、そのことがスペインメディアなどでも問題となっているようですね。

個人的には、待てがあったから永山選手が緩めたみたいな感じの話もありますが、ちょっとそれを言い訳にするのはどうなのかなと思います。なぜならば、締められていたのは永山選手側だからです。

たとえ、待てなどがあったとしても、仕掛けられている側から緩めるというのは油断があったのかなという気がしますね。締めている側が緩めるそぶりがあったならば、そこからというのであればわからなくないですが、締められている側が抵抗しなくなったら、その段階から締めが完成してしまいますし、本当に締めが決まったら10秒も待たずに落ちてしまうというケースもありますから、そう考えると、審判の待てがあったとしても、すぐに力を締められている側が力を抜くというのはどうだろうと思いますし、抜くにしても、警戒しながらであるべきだったと思います。

その意味で言えば、抗議やその後の礼を欠く行為というのは、ちょっと柔道家としては礼を欠く行為といわれてもおかしくないかなとは思います。

そもそも武道であるという点からしても、油断するべきではないと個人的には思います。

その意味で言えば、日本人は武道としての柔道をずっとやってきたと思っていたところがあり、それが国際的に柔道が受け入れられる中で柔道からJudoになってしまったというところを五輪などを見ていて感じたりしていたのですが、その柔道発祥の地の日本、日本人が柔道ではなくJudoに染まってしまったからこそ起きた話であるようにも感じます。

少なくとも柔道として真剣にやっていたのであれば、審判が待てをしたとしても、そこでその油断は果たしてあったろうかとも思うわけですね。

とはいえ、それは柔道の話であって、これはJudoなわけですから、その意味では、待てがあったにも関わらず技をかけ続けていたガルリゴスは、スポーツとしてはルールに違反した行為ともいえまますし、その中で自分が待てを出したにも関わらず、その場で引き離さずに、落ちたところで一本とした審判は誤審をしたといわれるのは仕方がないかなと思います。

まぁ柔道の判定は特にJudoになってから、国際ルールなのか、一本一つをみてもそれが一本?と思ったり、なぜそれが一本にならないのか?であったり、ちょっと審判の判断に疑問が起きてしまうのは確かですね。

今の時代であれば、柔道着にセンサーでもつけてしまえば、両肩が同時についたかどうかなどは確認できそうですし、最低ビデオ判定を導入したり、人による誤審というのは少ない状況というのは作れるような気がしますね。

誤審をしたということで今回の審判についても注目が集まり、過去にも誤審をしていたなどといったことが一部から声が上がっているようです。

誤審をしたと騒いだり、ガルリゴスにSNSで批判をいう行為は、個人的には、みすぼらしい行為のように感じますので、ちょっと悲しいですね。たとえそこに納得がいかないとしても、それで誰かを叩く行為が適切であるかどうかは別だからです。

しかしながら、実際こうして叩く層というのが一定数いるというのは確かです。

以前にも記述したことがありますが、改めて、審判というのは大変な役割だと思いますね。

特に今の時代は映像などで残ってしまいますから、その誤審が報道されてしまったり、過去の誤審も取り沙汰になり、蒸し返されたりとしてしまう時代です。

誤審がないには越したことがないのは事実ですが、スポーツの流れの中一瞬の判断を適切に見極めるのは不可能です。にも関わらず、それを強く求められるわけですね。特にオリンピックのような大きな大会であればなおさらのことです。

もちろん、そういうミスはないべきではありますし、より少ない方がよりレベルの高い大会では審判をするべきなのかもしれませんが、それでもなお、審判という立場のミスが許されないというのはなんとも言えないものを感じますね。まぁ、自分だったら絶対にやりたくない仕事の一つとでもなるでしょうか?

その意味で言えば、やはり審判に絶対性を求めるのであれば、可能なところは人の判断であるべきではないともなるでしょう。

あるいは判断するにしても、一人に任せられるべきではないですし、デジタル化なども進めていくべきかもしれませんね。

ただ、デジタル化などをするにしても、都度にそれをチェックするのであれば、運営に影響を与えてしまうということにもなりかねませんから、やはりそうなると、メインの審判を置くとともに、リアルタイムで映像確認をする審判をサポートする立場の人を置くなどにするしかないのかなと思いますね。

今回の五輪では、開会式についても様々に言われていたりと、なかなかに本来注目されるべきでないところで盛り上がりを見せてしまっているところもありますが、純粋にスポーツを楽しめる祭典として盛り上がって欲しいところですね。