藤沢和雄調教師引退 | 米の心

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週末でついに藤沢和雄調教師が定年で引退することになりました。日本の競馬の歴史において最も貢献度の高い調教師の一人の引退ともなるかもしれません。現在藤沢調教師は関東リーディングで1位の9勝、全体でも2位と相変わらず素晴らしい結果を残しています。引退の年までこれほどに活躍している調教師もあまりいないかもしれませんね。

過去を見ても95年から09年までの間で11度JRA賞最多調教師を取っているなど実績を見ても飛び抜けた実績を残しています。ちなみに通算勝利ではもちろん現役最多であり、引退した調教師を合わせても2位。史上2人目の重賞100勝している調教師でもあります。

今年に勝率は.170となっていますが、藤沢調教師の通算勝率も.172くらいですから引退の年までずっと安定して成績を残していると言えます。88年に調教師デビューしていますが、その年にガルダンが既に安田記念に出場というスピードもすごいですね。

調教師に騎手をしてからなるというのは近年も多く見られる傾向ですが、藤沢さんに関しては騎手を経験せずに調教師となっています。

名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎のもとで厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方などの競馬理論を形成し、その後帰国、菊池一雄厩舎の調教助手をし、野平祐二厩舎を経験し、その後独立に至ります。

日本にイギリスの名門厩舎の哲学を持ち込んだだけではなく、名独楽である野平さんや菊池さんの教えも受けているという点では、日本の調教師の歴史を継いで行った存在といえるかもしれません。

競馬の調教師は人の縁であり、それは調教師としてのつながりだけではなく、騎手との繋がりもそうですね。この調教師はこの騎手を良く使う、だれそれを干したみたいな話は聞くところです。

藤沢さんの場合は、野平さん、シンボリルドルフに会ったことにより、岡部幸雄騎手との繋がりもでき、それはその後タイキシャトルやシンコウラブリィでの鞍上にも繋がっていったと言えるでしょう。

藤沢さんは調教師として優れていただけではなく、騎手、エージェントからの信頼、繋がりも合ったが故に実力のある騎手の起用が出来たという点もまたその成績が安定したというところには繋がっているのかと思います。

G1初勝利はその岡部騎手騎乗のシンコウラブリィですが、その後昨年引退したグランアレグリアまでG1を勝利する様な実力馬を毎年の様に送り出し続けたというのはすごいですね。(ダンスインザムードの後はスピルバーグなどが出てくるまで少し苦戦していた印象もありますが。)

個人的には藤沢さんが調教師になった事の影響は様々にあるかと思いますが、長くみたところ、勝つ使い方をする、その為にローテーションを調整するという考え方の浸透という点でしょうか?

今では菊花賞を使わないというのは珍しくなくなりましたが、藤沢さんは早くから距離適性を見出し、勝てない距離を使わずに、勝負できる距離で勝負する、そしてそのレースに向かうための調整するという事に意識をした調教師だったと思います。

例えば、バブルガムフェローは3歳(当時の4歳)の時、菊花賞は距離的に難しいと判断し、毎日王冠を使い、天皇賞秋に向かい、見事に勝利をしています。

秋の天皇賞はマヤノトップガンやサクラローレル、マーベラスサンデーなどがいる中での勝利であり、3歳での勝利は史上2頭目であり(しばらく3歳に出場権がなかったというのもありましたが)実力ある古馬とのこの時期での対戦というローテを新しく構築した調教師の一人といえるかもしれません。

ちなみに天皇賞秋というより2000という距離に早くから重要性を認識していた調教師とも言えますね。シンボリクリスエスは2年連続で天皇賞秋、有馬記念と勝利していますが、他レイデオロなど天皇賞秋をローテに考える事が多かったです。

一方で菊花賞の勝利が実はありません。多くのG1を勝利している調教師ですが、使うレース、狙うレースに偏りがあるためかあまり八大レースでも勝利をしていないレースが多いというのも特徴です。

仕上げに慎重に進めていくために、3歳春から活躍する馬というのは以前は多くありませんでした。(近年になってからデビューやレースの変更もあって早い段階からの仕上げされた馬というのが増えましたが、3歳秋から4歳にかけて強い馬が多い印象です。)

この点については、今は仕上げをどんどん早くして、競走馬の活躍するスパンも変わっていくという時代に今は突入しており、時代の変化も感じるところですね。

藤沢さんのデビューのころから全盛期だったころまでは、5歳でも走らせるというのは珍しくなく、その分全体的に今は早めに仕上がりになる様になっていると言えます。

その点、藤沢さんは多くG1勝利馬を手がけた一方で怪我で早くに引退となったというのがいなかった点がすごいのですが、時代の変化に合わせて調教師も次の世代へと移っていくまさにそのタイミングになっているとも言えます。

藤沢調教師の影響を受けている調教師も多く、海外遠征なども含めて日本の競馬界の変化の中心であり続けた人物であったとも言えるのではないでしょうか。

関西所属と関東所属で競走馬も比較される事がありますが、藤沢さんの時代は関西が全体的に強い中で一人美浦で実力を発揮していた印象がある時もありました。その中で後輩の国枝さんに堀さんなどが出て来たといった感じでしょうか。

いずれにしても競馬界の中心であり、この30年、最も変化のあった時代に活躍し、そしてその歴史に名を残した調教師だと思います。後を継ぐ調教師達にはまたその歴史に名を連ねていって欲しいですね。

長い間ありがとうございました。