リスペクトをなくしたスポーツ | 米の心

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野球にサッカー、NBA、F1とスポーツ全般から、西洋や江戸、日本の歴史、経済、文化、社会や科学、時勢ネタその他種々雑多をただただとりとめもなくぼやくブログです。

昨日、一昨日と野球の規制について少し記述してきましたが、スポーツと民度、教養などの話を少し。

以前にも記述したことがありますが、スポーツはその歴史的な背景などもあって今みたいにどのスポーツも大衆的に開かれているというわけではなく身分などによってできるスポーツなどが違っていたりしました。

サッカーなどは比較的に身分の低い人にも親しまれたスポーツの一つであり、だからこそ南米でもそれが受け入れられ世界的なスポーツへと発展したという経緯があります。

なぜ歴史的にスポーツが誰にでも解放されていなかったのかといえば、お金の問題や教養などの問題が関係するからでしょう。

サッカーは今でこそルールが徐々に複雑になり、VARなども導入されるようになってきましたが、元々は陣取りゲームであり自分たちの陣地を相手のところまで広げる=ゴールというシンプルな楽しみ方だったわけです。だからこそ、奴隷身分でも楽しめますし、奴隷身分に対しての一種のストレス発散の娯楽としての使われ方もしていたように思われます。

それが戦略性が高くルールも難しくなっていくラグビーであったりとすれば、その人自身の人格が求められ、ルールを理解し、ルールに則った上で人として適切な行動ができなければなりません。

指揮官の命令をきちんと聞くことができなければ、暴動にもなりかねませんし、タックルなどが認められるスポーツだからこそそのルールを守ってくれなければ一大事につながるからです。

アメフトでいつだったか悪質なタックルが話題になったと思います。あの話はその後パワハラなどの問題があるのではというところまでも発展しましたが、スポーツは前提として言ってみれば本来悪いことをしないことをしているのであり、その前提を破ることをした監督やコーチ、選手に対して厳しい見方をされても仕方ないとも言えます。ハードなスポーツであるアメフトにおいてそれは本当にどういう問題に発展するかわからない危険な行為だからです。

この辺りは今の多くのスポーツは欧州の中で発展したことも起因しているのかもしれませんね。

王族や貴族などがやるスポーツであったテニスやゴルフなどにおいてはもはやどんだけ自分が毅然とした存在であるかということを前提としたスポーツですし、ゴルフのスコアなんて自己申告の世界であるとすら言えます。

クリケットやその後アメリカに行き発展した野球についてもバットなんて凶器と思いっきりぶん投げるボールを使ったりするわけですからやはり其れ相応の人間性でありがあってこそ安全に試合を進めることができると言えます。

また野球の場合はルールが複雑化しすぎる中で野球に興味のない人からすればなかなかそのルールすらきちんと把握できないようなものになってしまいました。逆に言えばそれを理解した上でやろうと思えば相応の教養なりが必要と言えます。

 

ちなみに野球やクリケットは割と多くのスポーツの中でも変わった部類の競技であるように個人的には感じています。サッカーであれアメフトであれホッケーであれ基本は相手ゴールに対して得点を入れる陣取りゲームというのが基本だったりします。スポーツはその歴史的背景からしても陣取りゲームを背景にしているものは少なくありません。一方で野球などは同じコートで攻守が切り替わるターン制みたいなシステムであり、意外とこういったスポーツというのは他に多くはなかったりします。


アメリカは4大スポーツとしてアメフトやバスケ、野球やアイスホッケーといったスポーツをエンターテイメントスポーツとすることに成功しましたが、ここでエンターテイメントスポーツとして成り立たせるために行われたことの一つがスポーツの大衆化です。

大衆化される中で今までそのスポーツを楽しめなかった人もそれを楽しめるようになったというわけですね。

しかしそれは身分や騎士道精神、教養や教育で培われてきた価値観や倫理観などを土台として成立していたところへの新たなアプローチであったということができます。

20世紀、21世紀と人々はどんどん豊かになり教育もされ生活水準などは上がっていったかもしれません。しかしその中で文化的に育まれる側面もある価値観や倫理観といったところまでが浸透していくかは別の話だと言えます。

今でも英国では身分制度がありますが、そのことに国民が不自由を感じそれを廃止したいと思っているかといえはそうとも言えません。そういう価値観の中にあるからです。

前置きがものすごく長くなったのですが、さて、アメリカではアストロズやレッドソックスのサイン盗みの話が持ちきりです。レブロンなど他競技の選手までがそのことについて発言するほどです。(この件に関しては日本では青木選手に発言を求める動きがあまりない、少なくともそこについての関係性を求めようとしない動きが見られるように思いますし、その点において日本の報道のあり方が果たしてそれで良いのかと疑問を覚えるところですが。)

サイン盗みはルールにも記述してあるやってはいけない行為の一つですが、日本でも高校野球経験者などは塁上の選手からのサイン盗みなどは当然やっていたという人などは少なくありませんし、塁上ならOKだが、今回のようなやり方ではダメという人もいたり、または全くダメという人もあって、そのあたりは人それぞれの判断はまちまちだったりもします。

しかしながら、塁上からのサイン盗みその他のものもやることそのものはさして難しくなくできますし、それもよほどでなければ明らかな証拠があるという状態にはならない話だということもできます。

つまり、サイン盗みについては規定に書かれているとは言えども暗黙の了解の世界の話でもあるともいうことができます。おそらくはそれもしないことが前提であり、そういう考え方、価値観を持ってスポーツマンシップに則りプレーすることが前提であるということです。

よく国際試合などでは点差が開いた状態での送りバントや盗塁をしないというのも相手を思いやる中である意味で人としてふさわしい行動をしましょうということにすぎません。

日本ではこの国際ルールに対していやいや5点差は何かあったらひっくり返るかわからない、勝利を目的とするならばそういう状態でもバントでも盗塁をしてでも勝ちに行くべきだという人は少なからずいます。勝利至上主義で勝利することを目的としてそのためには何をしてもいいというのが大前提として考えた場合はその考え方そのものを否定することはできないでしょう。

しかしスポーツにおいては勝利が全てとする考え方が果たしていいのかという点は歴史的に見てもそうとは言えないようにも思います。いうならばスポーツマンとしてふさわしい、西洋風に言えば騎士道に則った紳士たるプレーを互いにやる中で勝敗はつけるべきともいう話だと言えます。

それがスポーツが大衆化し、そしてそれが当たり前になりそれいう状態として普及した中でスポーツそのものへの考え方、取り組み方が変化し、またその中で何をしても勝てばいいという考え方を持つ人が現れ、それを実行する人が現れてきたというのが今回のサイン盗み問題にはどこか潜んでいるように思います。

あるいは少年野球における指導者の考え方、国際試合における日本の野球への取り組み、盗塁の話であってもしかりですし、(まぁこの辺りはそもそも日本は日本の独自の価値観の中で進化を遂げたのが野球であり白人たちのスポーツであったベースボールとは根底的に違う側面があるようにも思いますが。)また、金属バットで遠くに飛ばれてばいいという道具への追求もまたそれにしかりなところがあるのかなという気もします。

日本の場合スポーツをを部活動、教育の一貫としてみなすことがありますが、確かにスポーツというのは危険や不正などの側面を考えればそういうことをしない、そういう人格を育てるという意味では教育の意味合いもまた強くあるように思いますが、そうではなく争う、勝利するということ一点に目を向けてしまえばその教育という側面が失われてしまうこともあるように思います。

サイン盗みそのものをするのは確かに簡単なことですし、あるいは暗黙で誰もが現実としてはやっているのかもしれませんが、暗黙で誰もがやっているからではなくスポーツマンとしてそういうことに対して線引きをしてプレーをするということが本来求めれる世界なのではないでしょうか?

イチロー選手はドーピングが流行していた時期にプレーしていた選手であり、それをしなかった選手とされていますが、そういう野球への取り組み、姿勢そのものがあってこその野球であると感じていたからなのではないでしょうか?またそういった側面でもまたイチロー選手の警鐘する以前の野球ではなくなったというところにつながるようにも思います。

スポーツは今や誰にでもプレー、楽しめる時代になったからこそ、その楽しむために正しいという言い方が正しいのかわかりませんが、取り組み方、姿勢、価値観、倫理観というのがなければそのスポーツそのものを台無しにするということを示した事件だったようにも思いますね。

 

いってみればよく外国の方がいうスポーツや相手へのリスペクトがあるかどうかということな気がします。リスペクトがあればアストロズのようなサイン盗みには至らなかったでしょう。勝利を単純に求めるのではなく互いにリスペクトしあいだからこそのスポーツとしての成立、そういうものがあるように感じられますね。