利益とは | 米の心

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野球にサッカー、NBA、F1とスポーツ全般から、西洋や江戸、日本の歴史、経済、文化、社会や科学、時勢ネタその他種々雑多をただただとりとめもなくぼやくブログです。

割とそれなりの期間ブログをやってると結構いい加減なもんですから過去に同じ様な事書いたかもなぁなんてものであったり、過去書いた事と反対の事を言ってたりということも私の場合は珍しくありません。まぁそのの時の私が持っている情報などを基本にするわけですからそうなるのですが、今回の事もぱっと思いついた事を記述しているので昔同じ様なことも扱ってるかもというお話ではあるかもしれません。

利益を出して初めて社会に貢献するということはしばしば言われる事ですが、日本の場合どうしてもおもてなし、であったりサービス精神が豊富だったりでそちらの方がお得という印象を持つ事も珍しくないですね。

まぁ実際お客さんとしっかりとした関係性をつくれるということは長期的に見るとお得ということもありますし、その信頼関係を構築する上で、互いに気持ちのいい落とし所を見つけ出すということは必要なのかなと思います。

日本の場合は何気に薄利多売のモデルというのが多くあり、利益を出すという事に対してよくない印象を持っている人などもいますが、利益をしっかりだし、サービスを安定し、向上させるということは本来は重要な話です。

利益がなければ、先の投資もできないですし、環境の変化に対応できません。そうなった時に、ではお客さんに満足のいくものを提供し続けて社会に貢献できるかといえばそうではなくなってしまうわけですね

まぁそれはどのような世界で勝負するかによりけりであって、例えばうまい棒みたいに子供にずっと10円で楽しんで欲しいという思いがあるものについてはそれを貫き、ファンを獲得し続けるというのも一つのやりようだと言えます。

ただ、利益とは何かということを考えた時、単純にいえば利益は、売上とコストの差額であり、その差額というのは、支払ったコストに対してどれだけの評価を消費者が行ったかということの答えでもあるという事が出来ます。

極端な話で言えば、レストランで原価などは3割程度といった話も多く、そこに調理され満足する形で環境やサービス込みでされるからこそそこに支払う価値があると消費者が感じるのであって、利益とは付加価値に対する評価であるとも言う事が出来ます。

まぁとはいえ基本的には原価などは知らない消費者が一般的ですから、単純にそれだけのお金を支払う価値があると漠然な評価をしているにすぎないわけですが、利益をしっかりつけることが出来るというのは、それだけ付加価値を評価しているという事が出来ます。

スタバなどは利益率が高いことで有名ですが、スタバのユーザーであれば、値段が多少高くてもスタバの提供するサービスに満足しているからそのお金を支払っているんですよね。

スタバが高いという人は反対に言えば、スタバのそのサービスと価格に満足をしない人であり、そもそもこの二つ属性のユーザーをごっちゃにする必要はありません。価値観などが違うもの同士であり、突き放した良い方で言えば、スタバが対象としているのスタバを愛してくれるユーザーだからです。

もちろん、企業側はユーザーを獲得するための努力というのは惜しみなくする必要があります。

利益を減らしてサービス満点、コストパフォーマンスがよくて、薄利多売にするというのも一つの形です。

ただ、この形を求めた場合、そもそものユーザー属性はコスパなどを意識するような人たちであり、高くてもその雰囲気であったりを楽しみたいという人達とは異なる事が多く、それはお店に来る客層という形で現れ、仮にスタバのようなお店がそちらにシフトした場合は、そもそもうまくいっていた歯車も崩れてしまうかもしれません。

それよりは、今いるユーザーを満足させつつ、新たなユーザーとしてどのような属性の人々を取り入れるかという話に繋がっていくというわけです。

そもそも、経済で考えても、社会で考えても世の中というのは循環する中で成り立っているという事が出来ます。

ではその成り立ちにどのようにすれば無理がでないかと言えば、誰かが損をしているという状態をなくす事です。利益を抑えて無理をしている状態というのはそれで満足する人々もいますが、自分が無理をしているのでその循環に限りが出てしまいます。

そこで自分にも利益をもたらすことで、その循環に無理がなくなり、経済が回り、社会が回り、社会貢献へと繋がっていくわけですね。つまり社会貢献をする上ではきちんと利益をだしてこそという話にもなるわけです。

そういった意味では本来ボランティアというのは非常に社会のために役立つ行為であるように見えて経済などの観点で見れば必ずしもまともな発想ではないと言えます。災害ボランティアなどであればそういうと批難されるかもしれませんが、東京五輪のためのボランティアなどを例えにだせばより分かりやすいかもしれません。

もっといえば芸人とかが謹慎中にボランティア活動で社会貢献などといいますが、まぁ立場的に考えれば確かに社会貢献なんですが、芸人が自分の意図でもなく働いてボランティアだの社会貢献だのいうのもそれは違うように思えて、むしろその間しっかり稼いでそのお金を寄付やらなんやらやった方がよほどそうなんじゃないの?とかも思わなくはないです。

まぁボランティア活動をするというのは(万人が万人そうではないですが)そもそもそれだけ余裕があるからとも言う事が出来ます。お金持ちの人が寄付などをするのは税金対策などもありますが、やはりそれだけ余裕がある中で、循環し、社会に貢献しようという思いが普通にあるからと考えるべきかなと思います。

逆に言えば、利益を上げ余裕があるからそういう寄付やボランティア支援活動なども出来るのであり、自分が明日喰うか喰わぬかみたいな人であれば、聖母マリアや誰それでもなければボランティア、寄付それを優先するのはなかなか難しい事です。

よって自分たちがしっかり利益を上げるということによって初めて社会貢献というのが出来るというのは多様な面で見られる現実とも言えるかも知れません。

前述のように、もちろん詐欺まがいのものなど犯罪行為は別として、利益がなぜ上がるのかというのは、単純にその付加価値を支払うだけの努力を認められ、評価されたからです。努力の方向は人それぞれではあるものの利益をしっかりあげられるというのもまた、人に認められ、満足させる行為であるからであり、仮にその利益設定がおかしければ、消費者は満足せず、そのサービスはどんどん廃れていくか適正価格で落ち着くからです。

(ものによりけりで一概ではないですが。)薄利多売モデルというのはその意味では、お客さんに満足させる様なコスパのいいモデルである、サービス精神旺盛であるようであって、きつい良い方をすれば、自分たちの示すサービスの価値に自信がない、それだけの付加価値しかつけられないものといっているようなものであり、付加価値をつけられないサービスというのはそれだけ社会貢献度も少ないとも言う事が出来ます。

しかしながら、そういったモデルが一般的になると、今度は本来あるべき価格帯でのサービスにお客さんが満足しなくなります。今まで得をして来たサービスが当たり前であったわけですから、本来の価格が損した気分になるわけですね。

その意味では、ある種ボランティア的な精神ともいえる世界ですし、薄利多売モデルでのビジネスを展開するというのはそれだけの覚悟が必要という事でもあると思います。皮肉的に言えば高利益率を誇る様なサービスよりよほど柔軟性がなく、それをやり通すだけの覚悟がなければ一時的にはうまくいっても長期的には厳しいケースが多いからです。

利益を上げる事を悪く考えるのは根本的に間違っていると個人的には思います。利益とは付加価値への評価です。そして評価をされるということを悪とするのはなかなか哲学的な思想の世界の話ではないでしょうか?

極端な話、人間国宝の茶碗と素人の茶碗同じ環境同じものを使ったとしてもそこの価格には何百何千倍もの差が出るでしょうし、それは人間国宝の人だからこそそこまで付加価値を高める事が出来たという事に単純に過ぎず、ではそこまでの評価の高い茶碗をつくり利益を挙げた事を悪とする人はおそらくそうは多くないでしょう。

単純な話そういうことであり、利益をきちんと挙げるというのは単純にお客さんに認めてもらえたということでありそのことは素直に好ましいことであり、そしてまたその利益をもって新しい価値の創出をすればいいということに過ぎないのかなと思いますね。