日本の文字 | 米の心

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日本で使われている文字は漢字、ひらがな、カタカナがありその併用で文が作られるので習得が非常に難しいなんてことが言われたりします。カタカナもひらがなもどちらも漢字を省略化していく中でできた文字ですので、元々は漢字が入ってくるまでの日本というのは文字文化として形に残されているものがなかったといわれたりします。

そのため、文化レベルも低かったように誤解されることもありますが、実際のところ日本の縄文時代などの文化レベルをみてもなかなかレベルの高い水準にあったようで、これは単純に文字による交流の必要性がなかったところなどに帰する問題もあったのかもしれません。(まぁ文字による文化交流が必要ないというのはそれだけ文化的発展がしにくいということではあるのは確かですが。)

文字の発展の理由は様々にありますが、基本的には他文化との交流の中でのコミュニケーションツールとしての側面があったといわれていますね。

日本の場合は、基本的に特に弥生時代以降においては農耕民族としての固定した土地で文化を営むということが行われていったわけですが、(日本においては土地柄上そもそも遊牧民族みたいな生活のしかたは適切な環境であるとは言えなかったともいえます。)世界でいえば、農耕民族と遊牧民族がそれぞれにあり、農耕民族は生きる場所が固定的になるわけですが、それに対して遊牧民族は食べ物(自分のものも家畜のものも含めて)などを求めて移動しながら生活をしていくわけですから、自然と農耕民族と接することなどもあり、そこで文化交流が生まれる事もあれば、遊牧民族による攻撃などもあり得るわけです。

後者でいえば、中国などは長い間遊牧民族による脅威に悩まされ、秦の始皇帝は万里の長城を建設しましたし、遊牧民族はそれだけ環境に合わせて移動する生き方ともいえますから、地球の長期的な周期の温度の変化に合わせて、遊牧民が移動し、それがヨーロッパでは民族の大移動の形などで出て来たりもするわけです。

まぁ、そういう中で他民族同士で合意をするために共通の何かとして文字などが利用されていくわけですね。(逆に言えば農耕民の全てが文字をしる必要はなかったとも言えます。中の事な中でのコミュニケーションで住み、外部と接触する権力者などが知ればよかったからです。)

さて、前置きが長くなりましたが、日本で使われている文字についての話。

最近ではなんj言葉やらギャル文字やら様々な形での文字表現が増えていて、正直なところ解読するのが誰にでも出来るものではなかったりしますが、長い歴史でみれば、古典などもそうですが、地域的方言の差などが余りにも明確に表れているにもかかわらず、それが文字として残されているものについてはそこにかかれている事が分からないということは意外にもないそうです。

つまり、青森弁は全く分からなくても、青森で見つかったふるい本や記録なんかは読めるというわけですね。

まぁ、これは古典であれば古語体であったりもするのでその辺りの知識は必要ですし、昔の文字を読めるかどうかというのは単純に文字の崩し方とかを知っているかどうかということもあるのでその辺りは別の話として、つまり、文字に起こすということにおいては、共通的に使われるものであるという認識の元で行われているという事が出来Mます。

メールなどの普及から徐々にそれも崩れて来たようにも思いますが、確かに口頭ではつい方言というのが出ることはあっても、文字として起こされたものは標準語体である事の方が一般的ですね。

江戸時代などは参勤交代が行われていましたが、参勤交代がもたらした一つのメリットとしてあげられるのは、参勤交代で日本を横断する形で共通言語が使われる必要性があり、また、それは文字においても然りであるという側面はあるかもしれません。

文字について、もう少しみていくとひらがなとカタカナがありますが、どちらも平安時代前後に生まれたものであるのに対して、ひらがなの古典であったり、文字の芸術への昇格化というのは珍しくありませんが、カタカナについては、ある時代を過ぎるとあまり使われなくなり、再び積極的に使われ始めるのは明治時代以降だそうです。

網野善彦さんの本によれば、これは、カタカナは口頭を表すものとして使われたのに対して、ひらがなは文字として起こして使われていたからだそうです。

古典によるカタカナは祝詞などに使われる事が多く、祝詞は口頭にだすものでありそれをそのままに示したものというわけです。まぁ、ひらがなもカタカナもどちらも音を表した文字ですが、その意味合いでいけば、明治時代以降に外来文字が入って来た際に、それをカタカナ表記したのはわからなくはないですね。(中国も外国ですが、漢字がそのもの中国の文字ですが、カタカナで送り仮名として使われたりはしていたそうです。)

カタカナの起源は、漢文を和読するために、訓点として借字したのが始まりとされているらしいので、この観点からも音読利用の中での流れの文字だといえそうです。

書について、カタカナでの書の発展というのがあまりないのも、カタカナが口頭のものを示すのに対し、ひらがなは文字として使われてる事を前提と普及したものと考えるとまぁ分からなくはない話かもしれません。

比較的識字率が江戸時代などは高かったと言われていますが、これは逆に言えばそれだけ日本における文書主義が細部まで行き渡っていたと頃を示していると言えます。日本といえば中国の文化の影響はやはり大きいですが、それとともにいえば、今でも使われる印鑑、その印鑑の文化もこの文書の中での発展であり、中国からの影響のものと言えるでしょうね。

こうして考えると面白いもので、日本において例えば、それこそひらがなとかカタカナは音を表した文字として生まれたものであるのに対して、その文字でかかれるものは、方言などの多様性を省いた文書主義として一貫性をもって使われるものとして教育され、必要視されたものであるといえます。

まぁ、この辺りはやはり町民文化が発達した江戸時代の役割はなんだかんだ大きかったと言えます。参勤交代もそうですし、旅をする上で共通のコミュニケーションツールであり、トラブルに発展するリスクを抑えるために、文字はかかせないものですし、村の中での各人の役割や年貢をどれくらい収めるか、商品の帳簿に至るまで、共通の文字であるからこそ役割を果たせるというわけです。

ある種これは、日本が言語的にも含めて様々な発達を地域でしているからこそ、共通のツールの必要性があったといえますし、日本はなんだかんだ天皇を主体とする中央集権型ともいえる構造をしている中で、トップダウン式に文字文化を発達、教育、浸透させていくことが出来たからといえるのかもしれません。

さらに言えば、それだけ日本では紙もそうですが記録媒体が入手しやすい環境であったとも言えるかもしれません。伊達政宗の家来がローマ教皇を訪問した際にちり紙を使っている事に驚いたという逸話が事実かどうかはともかくとして和紙は早いものでは3世紀頃からあるとされてますし、平安時代には和紙は大量生産されるようになったといわれています。実際に高級ではなくなっていくのは織田信長等の楽市楽座廃止後の紙座の特権否定後、江戸時代辺りからでしょうが、障子などにも使われ、江戸時代には版画として大量に刷られる事からも紙が身近な存在であり、それを利用した文字文化も浸透しやすい環境にあったところは大きいように思います。

そういう中で、少なくとも元々文字がないところに、対して文字が導入されたのは中国からの流れですし、その文字は結局権力者に対して機能をし、その権力者から文字が発展していくわけですし、ひらがなやカタカナなども平安の中央の人から広がっていかなければ、広がりようがなく、そしてその中で文字での文化、表現というのが新しくある種開発され、それは、地方で元々使われていた何かを文字として表したものではなく、中央の言語を基軸としてそれを表現した文字としての理解、言語に認識が必要であったからなのかな?という印象を受けます。

(まぁ、あくまで私の勝手で明確な後ろ盾もない考えにすぎず明後日の方向のことなのかもしれませんが。)

なぜ日本全国で文字が共通なのかということは、前述の網野さんの本の中で読み確かにそうだなと思ったところですが、欧州などでいえば例えばラテン語から派生する形で様々な方言的な形で言語が発達し、その言語がそのまま文字としても機能しているのに対して、(特にスペイン語とポルトガル語などは方言みたいな話ですし)文字と方言がある種で基本的には記録する際には切り離されているのは面白い話ですね。

ある種の共通言語の創造(厳密には創造したわけではないでしょうが)というのは、今のIT、グローバル社会にも通ずるところとして感じるものがあって興味深いところです。