京都、京阪電車出町柳駅近くの老舗の名曲喫茶「柳月堂」の暖簾。
「名曲」喫茶なんて聞いても今時ピンと来ないでしょうが、クラシックの「名曲」です。
昔はレコード再生でした。今はどうなっているのかなあ。
ははは...... 私の事です。 「キレイに見放された人」。
0点が「目を背けるレベル」、100点が「目が吸い寄せられるレベル」だとすると、私は35点だな。
この事は10歳位で自覚しておりました。子供ながら辛い自覚ではありました。
50点以下の厳しい人生がこれから始まるのですから。
50点以下の人生は石槍持って狩りに出かけるようなもの。70、80点なら猟銃持てます。
100点ですと狩りに出る必要もない。獲物は調理までされてさあどうぞと目の前に差し出されます。
それに加えて母親は他界、父親は性格的に大いに問題あり、経済的には極貧スレスレ。
足は裸足で腰蓑姿、背中に重い荷物を背負って手には石槍、さあ、これで人生のスタートです。
当然の如く「モテ期」などというものは無く、華やかな恋愛ストーリーとは無縁。
男性からチヤホヤされた経験もなければ、女性からの嫉妬のバッシングはあろうはずもない。
それでも人生はある意味フェアで、なんとか伴侶(ろくでもない)は得られるもの。
子供も二人設け、苦難苦闘(子供達にとってはいい迷惑)の子育ても終える事ができました。
私は自分のキレイ度を自覚しております。幻想は持っていない事に自信があります。
それは鏡を見れば一目瞭然であり、経験上身に染みる事実でもあり、
面と向かっての「ブサイク」発言は稀なものの、巡りめぐって耳に入る事もあります。
が、そんな事で私は動揺いたしません。動揺するのは現実を受け入れていないからです。
では「キレイ」に関連しそうな何もかもを放り出しているかと言うとそうでもなく、
着るものには私なりのルールがあります。年齢相応で、みすぼらしく無く、シンプルである事。
化粧は口紅のみですが、眉を整え、日焼けを避け、爪は短く、かかとの手入れを怠らない。
これは天から与えられた(与えられなかった?)ものではなく、自分の努力の範囲ですから。
事実を受け入れるという事は、自分の心の中でのみ気づいているという事ではなく、
他者からの指摘に素直に(動揺せず)頷ける、と言うのが私の持論です。
それは何も「キレイ」に限った事ではありません。
馬鹿と言われようと、のろまと言われようと事実ですから動揺はないのです。
キレイに見捨てられてもできる事はあります。生きる環境が最悪でもできる事はあります。
馬鹿でものろまでもできる事はあります。最悪なのはできる事をしない事。
もっと悪いのは「勘違い」。 スタート地点を誤認しますから。
ですから私は「見捨てられた」地点からがスタートだったのでした。
それでもいずれ幸せにはなれます。
私が一つの例になれます。
幸せは「所有」ではなく、「平穏」だったのです。
全ては「心のありよう」次第なのですよ。
