呼ばれる その3 | けこですのブログ

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お堂の階(きざはし)に力尽き、命尽きて死んだカナブンが。
土に返してやろうかとも思ったが、彼がみずからここを選んだ気がして触れられなかった。
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ここからは全て私の個人的な解釈だ。
何しろどんな仏教の経典も解説書も読んだ事がない。
それでも毎日我が家のお仏壇に水と炊き立てのご飯を供え、手を合わせる。
お盆、クリスマス、初詣、なんでもござれの典型的日本人と自負(?)している。

他人はどうか知らないが、私が仏壇に向かって手を合わせる時、
中央におられる仏の絵姿は遠い存在で、むしろ亡くなった家族や近い先祖に親しみを憶える。
寺参りをする時なら、歴史的建造物やら独特の庭園にばかり注意が向く。
本堂の本尊に真摯に向き合って私的な思い、祈りを捧げた事があるかと聞かれれば、ない。

私が思うに、仏とは宇宙の実相の一つの具現ではないか。空に太陽があるように。
古代は太陽に祈った。どうか稲が実りますように。
仏にも祈った。どうか病が癒えますように。極楽往生が叶いますように。
が、太陽も仏も「そこにある」だけである。知らんぷりである。

根本中堂の内陣で見たように、救いを求める手に仏は応えない。
生けるものの悩みも、成仏を遂げられない死者の嘆きも、仏はただただ聴いておられる。
なぜか。仏は救わないし、救えないのだ。
自分を救うものは自分。それを教えるためにだけ仏はそこに居られると悟った。

ではどうやって自分を救うか。
私が今の時点で思いつけるただ一つの事は「感謝」。それより他に考えがつかない。
どんな逆境、不遇、不運に見舞われようとも感謝の源は常にある。
根本中堂内陣の黒い手も、仏に「求め」ず、「感謝」を捧げるべきなのだ。

般若心経の末節、羯諦羯諦波羅羯諦(ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい)、
これは訳するならば「至れり、至れり、彼岸に至れり」と聞く。
なんと美しい、歓喜に満ちた一節だろうか。
彼岸に至る道は仏が教えられる通り。「感謝」。それに尽きる。

比叡山を眺めて暮らした月日は三十余年、外国に暮らして二十余年。
やっとの事で根本中堂に「呼ばれた」思いがする。