ソ連がキリル文字で記録していた死亡者名簿は、厚生労働省が日本語名にして公表したが、はなはだ不備なカタカナだった。それを放置している政府の対応に怒って、70才の村山さんは動き出したのだった。戦争捕虜50万人以上が強制労働させられていた「シベリア抑留」については、戦争そのものより語られることが少ない。

現在厚生労働省のHP内にある名簿は村山さんの尽力で漢字名も表示されている。

※リンクします

↑「カナ氏名」がソ連側提供のキリル文字を日本名に直した部分。

ほとんど用をなしていない。

リンク先で上から四番目にある「-カ- ト-ゼ」と表記された人はいまだに誰なのかわかっていない。

こんな切れ端のような・間違いだらけの名前を渡されたら、シベリアで消息不明の家族を持つ人々はやりきれなかっただろう。

 

膨大な不完全名簿を、ひとつひとつ、血の通った人の名前に戻して、

それらをまとめて、やっと↓このような地図もつくられた。

ご苦労が伝わってくる展示品

それぞれの人生に向き合ってこられた様子がわかる。

↑当時の日本軍には日本に併合されていた台湾や朝鮮半島の人々もあった。

↑そういった人にも全力で対応してこられたのだ。

小松がシベリア抑留のことを身近に感じたのは、2008年にモンゴルで「日本人墓地」を訪れた時だった。

※2008年のブログにリンクします

この時期何度もロシアにも行ったが、現地ではシベリア抑留の話も日本人墓地の場所もきかなかった。

 

今年2024年8月に二回催行する《手造の旅》モンゴルでも、ぜひ訪れていただきたいと思っている。