小堀遠州の没後、二代目が父のためにつくった庭がもとになっていると伝わる。

琵琶湖のカタチをした池↑樹齢数百年のタラヨウの樹が左手↓

↑右手、池におおいかぶさるようなマキの樹。

荒れ果てていた庭だが、江戸時代からの基本構造を留めていた。

昭和四十年代に、遠州の風合を感じられる場所に復元されている。

小堀家は現在の滋賀県長浜市にある小堀村がはじまり。

小堀正一(後の「遠州」)は1579年(天正七年)父小堀正次(まさつぐ)の長男として生れる。

父は浅井家の家臣、

浅井家滅亡後に秀吉の弟秀長に仕えた。

 

10才の頃、66歳の千利休に出会う。

16才で古田織部の弟子。

※古田織部は利休の後継者のひとり

父が関ケ原の功で備中松山城を賜る、1604年父が亡くなり松山城主。

1608年、家康の隠居のための駿府城の建設担当となる。

翌年駿府城修築の功績により「駿河の守」、

以降「遠州」と通称されるようになる。

1619年に近江小室藩に移封。

家康の没後も秀忠、家光の信頼は厚かった。

小室藩のあった場所がこの「近江孤篷庵」のすぐ近く。

生まれ故郷のすぐ近くの小国の主にしてもらったと、ということだろう。

1624年に伏見奉行の役目を与えられたので

1647年69歳で没したのも伏見屋敷。

 

二代目、息子正之は父のために近江小室藩に、

京都大覚寺と同じく「孤篷庵」をつくり、「近江孤篷庵」と呼んだ。

近江小室藩はその後百五十年ほど繁栄したが、

田沼意次の失脚と共に困窮。

1788年に義民騒動で廃藩となった。

江戸末期には寺も庭も荒れ果て、

明治の廃仏毀釈で無住となった。

昭和13年に再興されたが

昭和34年の伊勢湾台風で本堂が全解。

遠州の茶杓を売ったりして資金を集め、

昭和40年に現在の建物を再興。

京都の高名な染色家★皆川月華(1892-1987)が襖絵を寄贈。

↑皆川月華が描いた「松、竹、梅」三つの部屋の襖絵を見通した向こうに見える遠州様の庭

↑襖が開かれた時の解放感が忘れがたい。

↑「松の間」↓

↑「竹の間」の真ん中に↑控えめにご本尊がおられる↑

↑正面の絵は月華が90才の時、弟子に支えられながらこの場所で描いた↓端に「卒寿」と入れてある↓

 

お茶会も開かれている。

↑「扇面流し」

 

↑「梅の間」で皆川月華の仕事集を開いてくださった↑十八代住職の小堀氏

兄が大徳寺におられるそうな。初代から四百年近く小堀家の縁は続いている。

↑「月」の引手は遠州の代表作「桂離宮」のものと同じ。

 

いろいろ質問していくうちに庭の向こうに小道があるのに気付いた。

「今日は陽も良いし人が少ないからちょっとだけご案内しましょか」

通常は見られない↑庭からの「松の間」

住職が大事に育てておられる花々にも出会えた。

↑初代から前十七代目の住職まで歴代↑藩主とは別に菩提寺も受け継がれてきた歴史がある。

 

駐車場へ戻る道の途中に近江小室藩の墓がある↓

↑真ん中が初代の小堀遠州のもの↑大徳寺から分骨したのかもしれない

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「近江孤篷庵」は訪れにくい山間に位置し、公共交通機関では行きにくい。

昨今の「インスタ映え」する派手なものはない。

しかし、春夏秋冬どの季節にも訪れる価値のある場所である。