こんな姿の像は他にない。
↑江戸時代の作だが、これ以前に千手千足の観音像があったのではないかと、推察されている。
江戸以前の文書に「千手千足の像」がつくられたという記録があるそうな。
この像が安置されている正妙寺は西野という地区にある。
●伝説
むかーしむかし、西野に近い湖北に阿曽津千軒と呼ばれた集落があった。
きびしい取り立てをする金貸し強欲婆が村人から憎まれ、ついに簀巻きにされて湖になげこまれた。
(中略)その祟りで起きた大地震の津波で、村は流されてしまった。
伝説だが、たしかに石垣が残っている。
阿曽津から逃れた人々は「野」のつく七つの集落に住むようになった。
豪族阿曽津秀道の内室の守護仏として千手千足観音が祀られていた。
寛弘年間(1004-12)とされる※東京長浜観音の展示解説より
その時のお像がどんな姿だったのか、知る術はない。
山の中腹の祠にあったのだが、安全の為平成二十九年に現在の場所に移された。
現地長浜では横や後ろから見ることは出来ないが、ここならばぐるりと間近にみることができる。
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東京長浜観音では現地長浜からの解説員さんが交代で常駐されている。
今回お会いしたOさんはいつもは長浜城歴史博物館におられる。
お話していくうちに、歴史博物館が所蔵する18世紀の日本で作られた望遠鏡の話になった。
それは鉄砲鍛冶集団として有名な国友一族の技術がうみだした。
なかでも特に異才をはなっていた国友一貫斎が19世紀はじめに制作したというのである。
反射式望遠鏡のレンズにあたる金属は、「百年経っても曇らない」と国友一貫斎が言い遺したとおり、今も輝いているそうな。
長浜にある国友鉄砲博物館には国友一貫斎関連の資料もたくさんあるようだ。
2022年4月長浜への《手造の旅》でお話していただく時間がとれますかしらん。