江戸時代、浅間山の大噴火で土石流に埋まってしまった鎌原村。

「日本のポンペイ」と言うには規模が小さいが興味深い場所である。

※冒頭の絵本と印刷物資料は北浅間ジオパークのインフォメーションセンターでいただきました

高台にあって土石流に呑まれなかった観音堂は今も残る↓

この階段の下に赤い太鼓橋があって

その下に埋まってしまった三十五段があるのだ

昭和五十四年の発掘で、年配の女性とそれを背負った若い女性、二体の骨が見つかった。

あと一歩のところで土石流に呑まれてしまったのだろう。

観音堂に逃れた人々の目の前の出来事だったにちがいない。

この話をきいていたので、軽井沢に住む先輩に連れてきていただいた。

上記は象徴的な出来事だが、実際にその意味を理解するためには周辺を歩かなくてはならない。

そう思っていたら、隣接する「北浅間ジオパーク・インフォメーションセンター」に鎌原村の散策絵地図があった。

位置関係と距離感をつかむのが少しむずかしいが、この地図のおかげで当時の様子を少し理解することができた。

街道の通る鎌原村の中心は「鎌原神社」のある一帯で、(地図上で)その下に川が流れており、渡った高台(地図だと右下)に観音堂があるのだ。

土石流は地図の右から左へ、時速百キロというスピードで村を呑みこんだということ。

中心だった鎌原神社まで歩いた。

最も古い木は火砕流で生き残ったものだと解説版があった。

ということは、この神社あたりがぎりぎりの場所だったのかしらん。

五百人以上の住民のうち九十七人が観音堂で生き残り、村を再建してゆく。

神社の入口に、土石流の五年後に建てられた蔵が残されている↓

屋根は後の時代に何度も修理されているようだが、藁の混ぜられた土壁とその中の木材が当時のものだろう。

梅雨の合間の気持ち良く晴れた日、かぎられた時間だったが大災害とその後の村を少し感じることができる。

ジオパークにお願いすればガイドさんのツアーも可能なようだ。

国内《手造の旅》浅間山(仮称)なんてのも出来そうだ。

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冒頭の子供向けの冊子はとてもよくできている。

土石流に呑まれた人々が千葉の大西洋近くの村でたくさん見つかり、そこで供養されていた話。

地元に伝わる「みまもり(身護)団子」の話。

ずっと唱えられ続けてきた「浅間山噴火大和算」について。

現在の村に住む子供たち家族の視点から分かりやすく解説されている。

 

観音堂と階段だけ写真を撮って去っていくのではなく、

時代のストーリーを語ってもらい、意味を理解して事物をしっかり見る旅をつくっていきたい。