14世紀、隠者セルギーがここに住みはじめたことがこの地のはじまり

城壁にかこまれた修道院に、何世紀にもわたるいくつもの教会堂が建てられている。

修道士のガイドさんを待って解説してもらいながらまわる

入場券↓これを見るとどこの国からの観光客が多いのかひと目でわかります↓

門をくぐる時に↓

聖セルギーの生涯が描かれている

最初は兄といっしょだったが、兄はそのうち音をあげて退去。一人で住みはじめたセルギーのもとにくまちゃんもやってきてパンをもらったそうな。

↓白い服になり、新しい名前「セルギー」となる↓

タタール人と戦うモスクワ大公を祝福する↓

セルギーは当時としては超長命な七十八歳で没し、ここに葬られた。

彼の徳を慕って人々があつまり、やがて修道院となってゆく。

 

↓このもっとも大きな建物=★食堂教会

ここはピョートル大帝が奉納したもの↓

↓彼がまだ「大帝」と呼ばれるようになる以前に政争に負けてこの修道院にかくまってもらったのを感謝して↓

↓内部は540㎡の柱のない広いホール↓

位の高いゲストがやってきた時のレセプションルームとして使われてきた場所。

左右に置かれた棺

左には16世紀にギリシャからやってきた聖マキシマ

右にはここセルギエフ・ポサードで慕われた聖アントニウス

食堂教会の横に敷設された小さなお堂は、晩年のセルギーの前に聖母マリアが現れる奇跡があった場所とされている↓

 

↓ひときわ大きな金色のネギ坊主が乗っているのが★ウスペンスキー(聖母被昇天)聖堂↓

※右側は★「精霊教会」

内部はフレスコ画に覆われ、印象的な四本の柱によって支えられている↓

この教会のカタチは、ロシア正教会の本山が代々継承してきた。

最初はコンスタンチノープル→東ローマ皇帝の妹を妃とした大公の居たキエフ→モスクワ大公国の元となったウラジミール大公国のウラジミール→モスクワ→そして聖地セルギエフ・ポサード。

それぞれの都市に同じカタチの教会が建てられている。

この聖堂内に聖セルギーが最初に葬られていたとされる木製の棺が安置されている↓

聖セルギーの遺体は、現在は撮影禁止の三位一体教会(※冒頭パノラマ写真のいちばん右に写っている教会)内に納められている。

ウスペンスキー聖堂の壁を修理している時に、突如水が流れ出した奇跡が起きる↓

その聖水をくみ取るための御堂↓

聖水を汲みたい人が多くなってきたのでそこから引いた噴水を設置した↓

オペラの題材にもなっている★ボリス・ゴドノフの墓がウスペンスキー聖堂入口近くに安置されている。息子フョードルをイワン雷帝の妹と結婚させ、帝の死後に即位したが、死後には簒奪者とされ、教会内部への埋葬を許されなかったからだ↓

 

ひときわ高くそびえる青い塔は88mの鐘楼↓※右は精霊教会

鐘楼内部にはピョートルの娘エリザベータ時代に設置された三十個の鐘が吊るされており、いちばん大きなものはロシア最大とされる74トンにもなるそうな↓よーく見てみると、その鐘の一部が見えております↓

セルギエフ・ポサードは社会主義革命が起こると閉鎖され、聖セルギーの遺体は暴かれて公衆に曝された。「おまえたちが崇拝していたのはこんな骨にすぎない」と見せつけるためである。かほどに宗教を弾圧した社会主義ソビエトだったが、民衆の熱意に抗しきれず第二次大戦後に修道院・教会は再開を許された。