サンクト・ペテルブルグ郊外、プーシキン区にあるエカテリーナ宮殿

朝の美しい光が大広間に差し込んでいる。雨の多いサンクト・ペテルブルグでこんなにきれいな光の入るエカテリーナ宮殿を見られるのは希だろう。これがロシア最初の印象になった今回の皆さんは幸運。

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エカテリーナ宮殿は、ピョートル一世(大帝)が二度目の妃エカテリーナ(後に一世として女帝となる)のために小さな土地をプレゼントしたことにはじまる。

宮殿自体は彼らの娘のエリザベータ一世の時代に建設されたそうだ。

現在の美しい姿はここ二十年ほどの修復の成果であるにしても、帝政ロシア絶頂期を感じることができる場所である。

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入場予約の九時まで少し時間があったので、あまり訪れない方の庭園を散歩する。

この時代には中国へのあこがれが強くあったので、こういう像がいくつも置かれたそうな。

宮殿を庭側の門から見る。

入場口へ戻る途中でイタリアからやってきた建築家ラストレッリの胸像↓かのエルミタージュ宮殿の建築にもかかわり、親子二代にわたってロシアの大地に彼らの名前を遺した。

入場を待つ行列のところで楽隊が演奏しているのは十年前と同じ↓

入場ゲートのあと靴カバーをつけて↓

細い階段を登るといきなり大天井がひらける↓

この部屋の壁に、当時の宮殿に定番だった磁器装飾がある↓

人間の大きさと比べるとこの入り口ホールの天井の高さと磁器の大きさがわかる↓

次の部屋が冒頭の大広間↓

ここで1791年に↑漂流してロシアに抑留されていた大黒屋光太夫がエカテリーナ二世に二度の謁見を賜った。日本に帰国するチャンスを得た場所である。

↓青い陶器の物体はストーブ↓

天井には「EⅠ」↓エカテリーナ一世ともエリザベータ一世ともとれる↓

エリザベータ女帝はパーティ好きで服装にひとつのルールを設けた。

「同じドレスで来ないこと」

実践するため・させるために、パーティが終わると衣装に穴をあけさせたのだそうだ。

彼女が遺したドレスは千着、靴は六百足だそうな。

 

宮殿内もうひとつのモノグラム↓AとMは何?↓

↑エカテリーナ二世が期待をかけた孫のアレクサンドル一世とその妃マリアをあらわしている。

・・・のだが、この部分を建築したイタリア人アントニオ・メネメントのイニシャルにもなっているという偶然。

↓当時の宮殿ではろうそくがつかわれていたわけだが、現在そういった火気の使用は認められない。緒方拳が大黒屋光太夫を演じた1992年の映画「おろしや国酔夢譚」を撮影した時、ろうそくのかわりに開発された「ゆらゆら炎のように揺れる電飾ろうそくがこれ↓

あれ?十年前はたしかにゆらゆらしていたのに↑今日は揺れておりませんなぁ?

 

ダイニングルームのテーブルはゲストの勲章の色によってテーブルが分けられていた↓

↑テーブルの端に付けてあるリボンの色がそれ

 

↓当時流行りだった磁器の果実がテーブルに乗せられている

ゲストはそれを「まちがって」齧ろうとして大げさに驚いてみせるのが「お約束」だったのだそうだ↓

↓チェスが好きだったエカテリーナ二世↓

↑外国からのゲストにはわざと負けて、お土産にロシア産の立派な工芸品のプレゼントを渡した。

それがロシアの国力を示す手段のひとつになっていたのだ。

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↓エカテリーナ一世の肖像

彼女はもともとマルタという名前の洗濯女で、ピョートル大帝に見初められて二度目の結婚相手となり、名前を変えた↓

↓二人の娘、エリザベータ一世↓前出の「ドレスに穴をあけさせた」パーティ好きな女帝

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この宮殿でしか見ることのできない↓「琥珀の間」は修復されてみごとによみがえっている↓

★第二次世界大戦中、ドイツがソ連に宣戦布告。

ドイツ軍の侵攻を予測して、エカテリーナ宮殿から何万点も宝飾・装飾品が疎開させられた。

しかし、この部屋の琥珀装飾は壁から引きはがすことができず、侵攻したドイツ軍によって破壊・略奪されてしまっていた

※このあたりの話はまた別の機会に書くことにします

 

今日は天気も良いので庭を歩く時間もとろう