紀元前204年にザマの会戦で戦死したヌミディアの王子アテバンの墓と伝えられている↓

ドゥッガ遺跡ではもっとも古いモニュメントである。

1842年にイギリスが復元し、その際に碑文を大英博物館に持ち去ってしまった。

※大英博物館のページからご覧いただけます。二つ目の写真です。

アテバンのいとこだったABARISHアバリシュがアテバンに捧げて建設させたと書かれているのだそうだ。騎馬の伝統があるヌミディアらしく馬のレリーフが見える↓

第二次ポエニ戦争はローマが勝利したとはいえ、敵の敗将の墓を破壊せずにおいたローマはやはり寛大な政策をとっていたのだと思う。

ヌミディア人はカルタゴとは違う民族だったから、彼らを心情的に味方につけるためにも破壊はできなかった、ということかもしれないが。

 

ドゥッガが最も栄えた時代は紀元後二世紀末から三世紀初頭。巨大な劇場や神殿が建設され、二万人を超える人々が暮らしていた筈だ。ローマ本国からやってきたラテン系の人々とアフリカ土着のヌミディアの人々は、町はずれにあるこの墓碑を見て三百年前の戦いの事を時折思い出したりしたのだろう。

現代日本の我々が関ヶ原の戦いの話をするように?(^.^)