スコットランド博物館をはじめて訪れた十数年前、ぎょっとして足が止まったのがこの仮面だった↓いったい何のためのもの?

「要するに迫害されていたプロテスタントの牧師のものだろう」ぐらいに思っていたが、今回《手造の旅》スコットランドで、十数年ぶりに博物館での時間を得た。

 

エジンバラの旧知のガイドさんを質問攻めにして(失礼しました(笑))得た知識と共に、この機会にちゃんと整理しておこうと思う。

少々長くなります。

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スコットランドのプロテスタントは、ジュネーブでカルヴァンに学んだジョン・ノックス(1513~15-1572)がもたらした。

彼は農民の子だったので正確な生年が分からない。優秀だったのでセント・アンドリュース大学に進み宗教界で頭角をあらわした。この時代、生まれを問われずに出世できるのは宗教界しかなかったのである。

当時のスコットランドでは土地や富を独占するカトリック教会への不満から宗教改革がはじまっていた。ノックスは師事していた宗教改革派のジョージ・ウィスハートのボディガードをしていたが、師匠が火刑で殺され、逃げることになる。エジンバラへ上陸したフランス(カトリックの援軍)に捕まりガレー船を漕がされたこともあった。

 

その後、ジュネーブでカルバンに出会い、宗教改革が成功した実例を目の当たりにしてスコットランド帰国した。

当時のスコットランドはイングランドとは別の国。女王はフランスに輿入れしたものの夫の死で帰国したメアリー・スチュワート。当然カトリックが優勢だった。ジョン・ノックスは彼女と大いに対立したがメアリー・スチュワートが夫殺しのスキャンダルで逃亡すると、ノックスの先導により、スコットランドの主要教会はプロテスタントへと変わった。 

ノックスは、ロイヤル・マイルにあるセント・ジャイルズ聖堂の牧師になった。今は英国国教会となっている同教会だけれど、彼の等身大銅像がおかれている↓

ノックスの住んだ家も、ロイヤル・マイルのど真ん中に残されている。この場所に住居を持てる権勢を誇っていたわけだ↓

ノックスの死後、しばらくはプロテスタント・長老派となっていたスコットランドだが、クロムウェルの清教徒革命後、1661年にチャールズ二世が王政復古すると、事態は急変する。

 

大陸への亡命も経験していたチャールズ二世は、自身は英国国教会の長だったが、カトリックのポルトガルからの王女を妻に持ち、プロテスタントを大弾圧しはじめた。

※彼は祖父ジェームズ六世(英国王としてはジェームズ一世)の代から、スコットランドと英国両方の王になっている。

 

南部スコットランドでノックスの流れをくむプロテスタント「長老派」の教区長だったアレキサンダー・ペデンという人物は、1663年に教区を追われて逃亡生活に追い込まれた。

★冒頭の仮面は、逃亡中の彼が説教をするときに顔を覚えられないようにかぶったマスク。それだけ身の危険があったのだ。

 

終われて逃げている時に落とした聖書が、追手の剣に刺されて残されていた事もある。スコットランド博物館のショーケースには、その剣の跡の残る聖書が展示されている↓※この聖書はウィリアム・ハネイ(William Hannay of Dumfriesshire)という人物がもっていたものという記述あり。同じような行動をとっていた牧師はほかにも多くいたのだろう。

ペデンは1672年に捕まり、アメリカの農園に流罪とされることになった。しかし、ロンドンからアメリカへ送るはずの船長が、流罪の理由を知って彼を解放。また、北へもどり、故郷近くで弟に助けてもらって洞窟に隠れてくらしていた。

亡くなったのは1678年。亡くなる数日前に弟の妻から詰問されたという話もあったから、身内にも彼の存在を疎ましく思っていた人もあったのだろう。遺体は政府軍に発見され、刑場で吊るされた。

 

★冒頭のマスクはその弟の曾孫の家の納屋で1840年に発見されたもの。

 

弾圧された長老派(=※この時代のスコットランドで特に「コヴェナンター」と呼ばれる)は、拷問や処刑さえ行う英国国教会司教に大反発。

ペダンの死の翌年・1679年には、セント・アンドリュースでジェイムズ・シャルプという国王が指名した国教会の司教が暗殺される事態を引き起こした。もとはといえばこの司教がむごい拷問や処刑を断行したのが原因なのだが、国王側はおさまらない。

 

これをきっかけに「コベナンター」の軍とイングランドの正規軍が、グラスゴーの郊外ボスウェル橋で戦闘↓

「コベナンター」の軍は、徹底抗戦派と停戦派で意見の対立があって、戦闘がはじまると一日で敗走した。

 

現代ではスコットランも主には英国国教会である。

が、今も「長老派=今ではプレスビテリアン」は存在し続けているのだそうだ。