日本史の教科書に載っている「フランシスコ・ザビエル肖像」は、1919年に北摂(大阪の茨木と高槻にまたがる地域)の山奥で見つかった。 高山右近が領主だった時代には一万人以上の信徒を集め、二十もの教会があったという地域なのである。禁教時代になっても、多くのキリシタンが隠れ住んでいたに違いない。

 

森さんという旧家の、屋根裏柱にくくりつけられた「開かずの櫃」の中に入れられていた。※このあたりの発見についての話は、こちらからお読みください。

 

小松が「?」と思ったのは、森家の近くに建てられた記念館にあるのはレプリカで、本物は神戸市立博物館にあるということ。

※神戸市立博物館のホームページからご覧ください

 
今回訪れた北摂の記念館では、ネットで書かれている以上の、ここで解説してもらわなければ知らないでいただろう興味深いエピソードを、話してくださった。
1920年(大正9年)「ザビエルの肖像画」発見を知ると、神戸で南蛮美術のコレクションをしていた池永孟氏が、ぜひ譲ってほしいと森家を訪れた。
 
先祖代々伝えられてきた大事な品を売り渡す気などさらさらなかった森家の当主は、当初まったく相手にしなかったのだが、神戸から日参してくる池長氏を諦めさせるために、「二万五千円なら」と、途方もない金額を提示。これは現在なら二億円にもなる金額だそうな。
 
しかし、池長氏は諦めなかった。「すぐには無理だが」ともどると、行動を起こした。親から遺されていた垂水の土地を処分し、十数年後に二万五千円を用意して森家を訪れた。
森氏はひっこみがつかなくなり、1935年(昭和10年)ついにザビエルの肖像画は池長氏のものとなったのだ。
 
大金をうけとったものの、先祖伝来の品を売ってしまったことをはげしく後悔した森家の当主は、受け取った封筒の表裏両面に、「この金はつかうべからず(意訳)」と墨書した。 この言いつけは代々うけつがれ、現在でも当時のままの「二万五千円」として保管されているのだそうな。
※記念館入り口をはいってすぐに、この封筒のコピーが、特別な説明を付加することもなく展示してあります
 
★得なくてもよい教訓⇒ 世界のどんな通貨でも、百年間同じ価値であり続けることは、ほぼ不可能。財産を残したいのなら、現金で持っていてはダメなんですね。
 

後日、「今」の話

ザビエルの肖像画を譲られた池長氏自身はキリスト教徒ではなかったが、長男の方は入信されて、今でも大阪の教区の責任者をされているとのこと。 

大阪の信者の方がヨーロッパの信仰ツアーをする際、この方に紹介状を書いていただくと、ヴァチカンなどでも、通常は入れない場所でミサが受けられたりするのだそうな。

 こちらは、8/20からの小松《手造の旅》スコットランドに神戸から参加してくださった方が教えてくださったエピソードであります。