「長く会えないでいる友人を探していますか?」

「ここに名前を出して、連絡先を書いておいてください。このミュージアムを通じて多くの人が再会できています。」


日系人博物館にあったボードはそういった役割のものである。

下には「イハラゼンザエモンを探しています(E-mailアドレス)」と書かれた紙が張ってある。


ロサンゼルスのダウンタウンにある日系人博物館は、過ぎ去った過去のことを展示してあるだけではない。


今もこうして、日系人をつなぐ役割を果たしている。


太平洋戦争中、十一万人もの日系人が全米十箇所の収容所に送られた。ここには収容所ごとファイルがあり、開くと収容されていた一人ひとりのページがあり、今の情報がわかる限り記されている。


そのうちのひとつ、ノノムラ・トシコ・ユーコに関するページが左下の写真。


二人は収容所を出てワシントンDCに暮らしていたようだ。2007年に孫のアマンダ・ノノムラさんが手書きでこのデータを書いている。


項目のひとつ●あなたが子供たちや友人のアメリカ人たちに伝えておきたいと思うひとつのことは、何ですか?という問いに、アマンダはこう書いている。


「私の祖母トシコは、収容所で教師をしていたのだといつも言っていました。そして、きびしい時代であったけれども、コミュニティはいつもお互いを助け合っていたのだと」



同じ筆跡で右にこう追記されている。


「2012年1月29日アップデイト。ユーコ、トシコともに今は他界しました」


アマンダは日系三世か四世になるのだろう。日本人のような顔だちをしているのだろうか?日本語は話せるのだろうか?


たとえ日本語が話せないとしても、彼女が日系人としての誇りを持ってアメリカ人として生きている事が感じられる。


彼女はわざわざここまで足を運んで、祖母の最後の消息を書き残していったのだから。