どの時代の誰だって、

武装していきなりやってくる外国人を

すぐに友達にはできない。

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1411年、セイロンの地方王国・コーッテの王は、もう三度目になる中国からの武装大船団を敵視した。


明の永楽帝に派遣された海軍提督・鄭和(ていわ)は、コロンボの港に船団を待たせ、二千人の兵と共に内陸のコーッテまで行軍。外交交渉をしようとしたが、船団が襲われたのをうけて戦争になった。


コーッテ王国は簡単に敗北。王とその家族は囚われ、明の首都南京まで連れて行かれた。 

しかし、謁見した永楽帝は彼らを咎めず、帰国させ、再び王位につくのも止めなかった。ただ、明との友好関係だけは約束させた。


これによって、セイロン島でのコーッテ王国は明の後ろ盾を得たことになり、島内の他の王国も統合して1597年まで存続することができた。ちょっと皮肉な歴史である。


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スリランカの古都ゴールの海洋博物館で、鄭和の建てた三か国語の碑文に出合った。※これは精巧なレプリカで本物はコロンボの国立博物館で見た。
trilingal_hibun
右に中国語、左上に南インドからセイロン島の言葉タミル語、左下にアラビア文字のペルシャ語が刻まれている。


内容は、それぞれの民族が信仰する神への奉納。

中国語では仏教の神へ、タミル語ではヒンズーの神へ、ペルシャ語ではイスラム教アラーの神へ。


鄭和は1405年から14033年まで七回もの航海を行った。この碑文は南京で1409年に製作され、第三回の航海でゴールへ持っていき建てたと考えられる。※1409年と考えられる日付が刻まれている。


当時の明国首都南京に、この碑文のもっとわかりやすいコピーがあるのを知った。下の左がそれ。拡大すると三か国語がはっきり読み取れる。


trilingual_nangin


鄭和という人物は複雑な出自である。現在の雲南省の由緒あるイスラム貴族の王子であった。


しかし、その国は少年のころ、明に征服され、捕まり、去勢され、明の皇帝に献上された。


十歳から当時の洪武帝の四男・朱棣(後の永楽帝)に仕えた。

宦官となり、その能力を永楽帝から高く評価され、海軍提督となったにしても、その出自が彼の征服行での行動に影響しないわけはない。


コーッテの王国を征服し、王族一家を捕えた時、彼はかつての自分を思い出しただろう。征服者に屈服し、悔しさに唇をかむ王子を見たかもしれない。


鄭和の大航海は、中国史では平和で外交的なものだったと評価されている。