私は、毎日毎日、

いのちを頂いて生きている。


一回の食事は、

海に在ったいのち、

畑に在ったいのち、

山、牧場、様々なところに

存在したいのちによって、

成り立った奇跡の一皿だ。


数日前の夜、

この奇跡に、

突如気がつき、涙が溢れ、

なかなか寝つけなかった。


しかし、その後、

食事の度には、ここに意識は向かず、

以前と同じように食事をした。


気がついたことや理解したことを

そのものが目の前に在るときに、

感じられないことは、悲しいことだ。


そして、今、

私の席へ運ばれた目の前のいのちが、

何処から来てくれたのか、

知る由もないが、

出会うことのなかったいのちたちが

同じお皿の上に在り、

私はそのいのちを頂いている。


今日は、なぜ、

感じることができたのか?

今日は久しぶりの休みであるからか。


目の前のものを感じるには、

ゆとりが必要か。


私は、私の内側を見、確かめ、

目の前のものと触れ合い、学び、

生きていきたい。


自分の未熟さを成長させていきたい。


そのためには、

ゆったりとした安全な時間が必要だ。


私が生きていられるのは、

私以外のいのちと

私のからだのおかげであり、

私は頂いて頂いて生きている。


頂いたありがたい慈しみを

世の中に返していきたい。


頂いたいのちと共に、

ハタラキをさせて頂けますように。