居場所を求めて集まってくる子供たち
これが大人なら完全に自己責任と切り捨てられるけれど未成年だと家庭に責任があると推測される
家に帰るとアル中の親父がいて殴られる
家に帰っても誰もご飯を作ってくれる人がいない
親が他の女や男を連れ込んで家に入るなと言われる
などなど凄惨な家庭は一定数あるのだと思う
やはり教師や近隣がその状況を察知して児相に通報したりして行政と繋げていくしかないのでしょう
でも、行政と繋がることを拒否する人もいて
助けてくれる人を求めてさまよう子供もいる
そして、同じ境遇にいて自分を受け入れてくれる仲間を求める
これは理解出来なくもない
でも、今は「金銭的に衣食住を満たせず命に係わる状況」ではない子供も多いと言います
お小遣いをもらっているけれど「推し活には足りない」
バイトはしていても「ホスト遊びには足りない」
という風に
「寂しいから居場所がないからそうなるんだよ」と言われれば言い返す言葉もない
でも、自分は居場所がなかったら図書館に行こうとか下町を散歩しようと思っていた
自分が育ったところにはとても良い図書館があってきちんと仕切られた机で思い切り読書が出来るし、好きな映画までAVルームで見れてしまう
これが無料で!?と中高生の時に驚いた
うちは両親共働きで家に一人のことも多く、寂しがり屋だった私はその日に遊ぶ約束がないと図書館に行ったり、少し知らない場所まで冒険感覚で散歩したりした
しばらく歩いて元の場所に戻ってしまい「こんなところにあの道はつながっていたんだ!」って驚いたり
あまり、自分の気持ちを誰かに受け止めて欲しいという期待はその頃はなかった
自分の気持ちは全て尾崎が分かってくれてるからと思って生きていて(笑)
寂しい気持ちや満たされない気持ち、不安な気持ちは本を読んだり知らない場所を知る喜びで満たしていた気がする
大のテレビっ子でもあり平日の昼間に傑作ワイド劇場というテレビ枠を夢中で見ていた
テレビの中の孤独な人や寂しさを隠しながらも生きていく様に心惹かれた
私の地域の中学校はあまり治安が良くなく、自転車に二人乗りしながら制服で中学生が平気で煙草を吸っていたしシンナーを吸っている子もいた
そういう人たちには決まって仲間がいた
一人でそういう事をしている人をほぼ見たことがない
暴走族もとても多かった
寂しくても誰かと話したくてもそういう人たちに近づこうと思ったことは一度もない
差別と言われるかもしれないが「いかにしてそういう人たちと関わらずに生きていこうか」とばかり考えていて
だって、小学生にも眼つけてくるんですもん、、バシバシと、、
きっと多くの人がそうだと思うんです
「それは結局家庭が満たされていたからだよ」と言うのかもしれないけれど、夜も親がいないことも多かったし昼間もただいまと言ってくれる人がいなかったり寂しいことも多かった
夜に親がいないわけだから夜に出かけてしまってもあまり気づかれずやろうと思えばやりやすい環境であったことは確かで、、
でも、夜は怖いし事件に巻き込まれたら自分が損すると思った
お小遣い以上のものは大学生になってバイトするようになったら思い切り買おうと思った
本当の一部の人間なのだろうけれど自分の身体を売ってまでホストや彼氏に貢ぐのはなぜなのだろう
いつまでも貢げるわけでもないしその貢物がなくなったらそこで終わりになってしまう
そんな関係性に意味があるのだろうか
私はお化粧にだって思ってしまう
大学生の時にはお化粧などせずに受け入れてくれる人でなければ
私が30代にでもなれば見切りをつけるだろうと思っていたし洋服も全てそう
無人島に行って取り残されても、お互いやっていけるだろうという人じゃなきゃ好きにはなれないと思ってた
会話のセンスやフィーリングや興味の視点、物事の見方、ここが合っていれば何とかなるんだろうと
それでも、今の夫と喧嘩してしまうのだから容姿やお金で繋がっていた場合は本当に簡単に切れてしまう縁なのでしょう
そういうことは簡単に想像出来ると思うのだけれど貢いでしまう人がいる
やはり先の希望なのでしょうね
希望が見えないから自分を大切に出来ないんですよね
それは皆分かってるけれど希望を抱かせることって無理には出来ないし冷たい言い方をすれば一定数そういう性質を兼ね備えた人は生まれてしまうのかな
仕事を通じて出会ったそう感じる人もいる
後天的か先天的かは不明だけれど精神疾患が根底にある場合も多そうな
結局、こういう未成年を0にすることは出来ない
だからと言って放置することは良くない
でも、「中にはそういう子もいるよね、、」って多くの人は心の中で思ってる
でも、、大人として出来ることは、、ってところですよね
こういうこと考え出すと結論出ないんですよね
自分の思考にない考えを想像力で補おうとするけれどそれを解決までしていく行動力もない
どうして、自分を傷つけてまで身の丈以上の何かを得ようとするのか
それで欲しいものや人が得られたとしてもそれがなくなったら、また失うという恐れはないのかと帰結してしまう
それを繰り返すことがどれだけ虚しいものなのか
どれだけ自らの肯定感を減らしてしまうのか