ブログって何の為に書いてるの?って聞かれても
よく言われるように結局は
自己承認欲求を満たしたり共感を得たりしたいんだろう
以前からブログで言っているように私はブログに共感しかいらない
批判や促しはいらないなぁ
わざわざアドバイスらしいアドバイスもいらないかも
それはその人の文面から自ら読み取り感じるものだから
仕事でもないし完全な趣味ですからね
もう大人だしブログでは共感のみでいい
昨日は家族で卓球に行ってきた
下手な私もラリーが続くと興奮してくるし身体を動かして
とても気持ちが良い
結論は
楽しかった!!
卓球出来る相手がいて良かった!!
身体を動かすと気持ちが良い!!
というだけのこと
自己完結する感情以外の何物でもない
それをブログにする意味
それは見てくれる人とその感情を共有したいという気持ちのみ
「卓球行ったんだね」と認識してもらうのみで、特にそれ以上の進展も意味もないということぐらい分かっている
でも、それが嬉しくてブログを続けている
なぜ、それが嬉しいか
それは人は多かれ少なかれ共感を求めているとしか言いようがない
それを無意味とか虚しいとか言い切ってしまう人は
全員から意味があると言われる行動しかしないのだろうか
私はそう言い切ってしまう人の想像力に疑問を感じるし
その人の「意味がある」という事象にも信頼がおけない
自分の人生に意味があるとか他人の人生には意味がないとか
そんなことを言葉にして、それこそ何の意味があるのだろう
私は夫婦仲が良くなくて特に仲良し親子というわけでもなく
仕事もまあ普通
特筆すべきこともないけれど、以前にも書いたように自分のことは嫌いじゃない
自分を嫌いじゃなきゃ人生はまあまあやっていけるんじゃないかと思ってる
自分自身の根っこには自信があるのだと思う
自分の直したいところや嫌だなと思うところはたくさんあるし
やり直したいこともたくさんあるけれど
直せることには限りがあるし、過去はやり直せないから
後悔や情けなさを孕んで進んでいくしかない
でも、なんだかワクワクする瞬間はあるし
そんなに悲惨なことにはならない気がする
以前にも書いたけれど孤独死=悲惨と決めつけるのも
結婚=幸せと決めつけるのも無意味
結婚より幸せな孤独もあるし、もちろん悲惨なこともある
やっぱり、結婚して良かったと思う瞬間もこんなことなら独身で自由に生きていけば良かったと思う瞬間もあるんじゃないかな
もちろん、生涯独身や結婚しない人生は考えられないぐらいそれぞれの選択に自信を持ってる人も当然いて
その時その時の周囲の状況は変わるものだから
「私、凄く幸せなの!」と言っていた人が数年後に離婚していることもある
そして、「もうどん底なの、話を聞いて、、」と言っていた人が
数年後に再婚して「今最高に幸せ♪」と言う場合も当たり前にある
その時その時の一場面を切り取って他人の人生や自分の人生を結論づけても仕方がない
だから、紋切り型の感情を投げかけられても
無意味なのになぁと思ってしまう
「さっきまで泣いてたカラスがもう笑ったぁ♪」と子供の時に言われたがそれは一生そうなんだろうと思う
他人を決めつけたり、いい歳した大人にアドバイスをするぐらいなら自分のことは自分で片を付けられる人間でありたいと思う
アドバイスを装って自分の人生を肯定してと言っているようにしか私は感じないな
少なくとも大人にはその人の生き方を見て自ら感じることがアドバイスに勝る強力なメッセージだと思う
凄いなと感じる人ってたくさんいて
人の人生にはたくさんの奥深さがあって
底と思っていた部分が底じゃなくなり山だと思っていた部分も然り
一部の社会に迷惑しかかけない輩を除き、大概の人間て凄い力を秘めているということが分かっていれば人にアドバイスなんてそうそう出来るものじゃないと感じるけれど
よく大概の人は自分の顔を「平均より少し上」と思っているんだよと言うけれどそれは色々な面で言えるんじゃないかなと思う
色々な面で皆自分に自信を持っている部分があるのだから
そうでなければ生きていくことは出来ないのだという消極的理由だとしても、それを認め合って生きていけばいいと私は思う
卓球終わって、このアイス食べたら凄く美味しかった!
流石、赤城乳業に外れ無し
そして、今日はこの2冊をサクサクっと読みました
向田邦子さんと東野圭吾さん
すー-っと読める作風で忙しい時にも良いですよ♪
1冊1時間かからないんじゃないかな