妄想世界の脳内思考を聞いてくれ‼︎ | koma3232のブログ

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 私は今,私の私自身の破茶滅茶な妄想,脳内思考を吐き出していく。

 さあ,破茶滅茶な妄想を聞いてくれ‼︎

✳︎富士も荒れる!

 地球の地均しは誰がやる!

 この世の地均しは目に見えない偉大なる何者かが行う!

 おろかなる独裁者は,其れに踊らされて,無慈悲な殺戮を繰り返す‼︎

 ああ,哀れな‼︎


 人間が,おそろしく永い時間をかけて追いかけてきたもの。

 それは,おそらく繁殖と食べることへの安定性と保証であろう。

 人個体を増やすこと。

 それは,種社会を維持するための必然であった。 だが人が増えることは,栄養を得るための食料との微妙なバランスの上に成り立っていることである。

 人が増えれば食料も増やさなければいけない。

 食料が不足すれば,どこかで人口抑制が必要となるであろう。

 そのために,人社会はこの空間的時間的な世界において,混沌とした血なまぐさい生存競争の修羅場を今も繰り返している。

 人社会の大系や秩序を保つためと称してのテロとの戦い,大量難民,感染症などなどなど…

 表面の繕いはいくらでも可能であることから,あらゆる意味での人口抑制が進行していく。

 それでも,人の命の尊さを政治家・宗教家・企業家などの指導者は訴える。

 それに答えての医療科学の発達は目を見張るものがある。

 そしてついには,医療科学が法をも追い越してしまい,ほぼ死んだに等しい人たちが科学によって人工的に維持されてしまった。

 いったん使い始めた生命維持装置は,生きていることがほとんど死物になった状態においてさえも装着し続けなければいけない滑稽さ。

 一般に死の判定と言われている脳波の消失と心臓の停止がないからといって,潜在的に死物となった人に対して,望みのない死んでいるのにほぼ近い死物の人に対して,望みのない生命に対して,これは生きている基準に合致しているから生きているといってもおかしなことであろう。

 生きていると云うことは,その身体なり構造なり,その構造に備わった機能なりが働くから生きているのである。

 機能もしない生命に対して,もとは1つの細胞から生成発展してきた構造なり身体なりの複雑な細胞に対して,いやまだこの部分の細胞たけは生きているから,この人個体は生きているんだといっても,それは愚かであろう。

これは,医療科学の頭でっかちである。
 再度云おう‼︎

 生きた人個体は,話したり,笑ったり,怒ったり,食事をしたりすることができる生きた人個体であって,それが生きているということである。

 働くこと,動くことができる,このような様々な機能を発揮できる構造が生きている人個体の構造であり,この構造こそが生きている人個体である。


 このように,人社会の維持のための繁殖が人という種を束縛してきた。

 人はこれから解放されることによって,はじめて人社会というものの進むべき道を見いだすことができるのではないだろうか。

 時代は今混沌としている。

 しかし,その中においても人の数で人社会を維持していこうという方向から,人に注ぐ愛情,人らしさ,優しさ,これを何と呼ぼうか⁈

 博愛とでもいおうか。

 生物的自然の立場から云えば,適者生存(自然淘汰)から多種共生(棲み分け秩序)へのシフトであろうか。
 人はよく歴史は繰り返すという。

 しかし,私は思う。

 理論的に単なる繰り返しというものはなく,どこかに必ず新しいものが作られていっているのである。

 つまり,歴史の繰り返しはけっして必然ではないのである。

 歴史というものが繰り返すと云うことで,私たちにとっての束縛となってしまったら,私たちは創造性もない単なる自由を失った下等な生き物になりさがるしかないであろう。

 人が歩んできた過去・歴史は,温故知新であり明日からの新しい方向性とか創造性とかを作り出すためのエネルギ-であると解釈できる。
 私たち種個体,つまり一人一人にあっては,人の歴史に学ぶと云うより人をも含めた自然の歴史に学び,今を理解し,過去から引き継いできたおそろしく永い先祖の遺伝子をうまく活用し,己自身の精巧で精細・華麗な好みの意匠を織り上げていくべきである。

 この種社会からみた甲乙ない人個体でも,人個体としては人社会の枠内において甲乙が現れるわけだから,人個体それぞれが助け合い想像力を発揮していくことが,種社会が求めている平衡・安定のある社会を構築していくのではなかろうか。

 私たち一人一人がお互いに創造性をもって生きているんだという認識と意識を強くもつことが必要となってくる。

 私たちは,人社会において,生物全体社会において,ジオ・コスモスにおいて,実際に人個体として今の生きているこの現実世界の形成と平衡に確かに関わっている存在であることを強く思わなければいけない。

 私たち一人一人が,このような考えをもつならば,人社会は更なる進化を遂げることができるのではないだろうか。

 さて終わりにあたって,私自身の今まで述べてきた思索・自然敵思索なるものは,その道の所謂,生物学とか生態学とかの大家と云われる人たちの著作や発表論文,講演などの優れた知識と能力から見た場合に,とても稚拙な幼稚なものであるに違いない。

 私よりもはるかに素晴らしく見事に説得力をもって述べていることがらについて,私はかなわないと自覚している。

 私の思索や判断なるものは,それらの人のいいとこどりだと云われるかも知れない。

 かといって,私の無知なることを非難しても私はどうとも思わない。

 なぜならば,それらの人の言葉どもも真の意味では過去の人たちの智恵・知識が土台となっているのだから,全くの新しきものは存在しないはずだ。

 科学の発見は遺伝子からの盗人だ。

 技術の発明は他生物たちからの盗人だ。

 これは全く正しきことであろう。


 私の考え述べたことに対して,私はそれらの知識ある人たちに責任をもつことはできないし,自分に対しても責任はもてない。

 なぜなら,私自身が今まで述べてきた私の思索や判断に対して満足や納得しているわけではないから。

 私ていどの無名なる人の思索や判断がお嫌いな方は,今すぐに困難で理解しがたい知識人なる人たちの思索や判断を大いに学んで欲しい。
 今まで述べてきたことは,私の自然体感から拡がっていった私の生き様にすぎない。

 そこから滲み出てきた創造性・創造力である。

 
 私の生き方‼︎

 それは南アルプス三峰川での台風時の豪雨における自然の猛威,暗闇の天から発する雷と稲妻,そして荒れ狂う氾濫川中から響いてくる悪魔の如き土石流と化して流下する巨石群の水中での雷(巨石同士の肉弾戦)と水上における稲妻(水中から跳ね返されて川上に浮かんだ巨石同士のぶつかり),また急斜面地からの土壌中から徐々に滲み出てくる汚き泥水と現実的実体験‼︎

 この時ばかりは,無生物が非常にも生物として躍動している瞬間であった。

 無生物も生物であることを実感する刹那であった。

 私の周辺には逆に全ての生物はいない。

 生物が無生物として静止している瞬間である。

 生物も無生物であることを実感する刹那である。 生物と無生物の矛盾的自己同一,生物即無生物,無生物即生物,生物も無生物もない瞬間,連続と不連続の瞬間である。

 私の友はこの体験から一瞬に手の爪10本が黒化してしまった。

 死を覚悟した瞬間である。

 私なる生物は不思議と無生物の中にいた。

 無生物と同化していた。

 怖さは感じなかった。

 なぜだかはわからない。

 今もってわからない。

 私の生き方,それはこの時に目覚めたかも知れない。
 以上のことから,私の現在における自然・生態的知識がどのレベルにあるのかわからないけれど,私はただ今この瞬間における私の知識において述べているだけである。

 さて私は,この私の自然的感覚の中において,多くの人たち(過去から現在に至る人たち)からあらゆる形において,深知識と勇気と節制と正義を借用した。

 そして,そこに私なりの表現でもって述べてきたつもりである。

 私の不足していることがらは,他人に借用し,その人たちの説明や比較や検証なるものを,私の思索・判断に注入して,私の拙い思索と混在させて述べている。

 それは私自身の言葉ではないと人は云うかも知れない。

 しかし,私の文として今それは語られているから,それは私の文であり私の言葉であり私の創造性であることに相違はないと断言していいだろう。
 私は,私自身の無知を自覚することによって,この私の自然的感覚・感性なるものが,思索・判断として最も優れて美しいものであることを信じて,ここに終わりとする。


 ああ,私の妄想は遂に破茶滅茶な妄想と化したか⁈