活法(碓井流)について語るとき、印象深いエピソードをお話します。

 当時でも既にインターネットは盛んでホームページはあって当たり前のご時世でしたが、活法(碓井流)にはまずホームページがありません、故に当然ですが申込フォームもありません。ネット検索かけても今もたぶんありません。

 私はたまたま友人が学んでいた事からその存在を知ることになりました。

 とにもかくにも友人についていき一回見学することになります。

 本日はよろしくお願いいたしますと自己紹介と共に挨拶しましたが、当時初老の碓井先生の第一印象は威厳がとんでもなくすごかった、人間としてまるで敵わない、それでいて気さくな面もある人、でした。

 つまり初対面の時点で「この先生の元で学びたい。」と本能的に感じました。

 見学に行ったものの普通に勉強会に参加していいよと言っていただき、一緒に練習させていただきました。

 さてそんな中で勉強会も終わりにさしかかります。

 ホームページが無いのはお話した通り、申込用紙や案内もない、うちに来る?とも聞かれない、何もない、今では考えられない方も多いかもしれませんが学ぶというのはそんなものです。

 ホームページに懇切丁寧に概要が書いてあり、モチベーションもあげてもらい、申込フォームもわかりやすく、導線を間違わないように、という今の主流とは全く正反対です。

 学ぶというのは前者、後者はお客様です。

 実は後者を選んだ時点でお客様になるという選択をしている、と言えなくもありません。

 学ぶというのは前者、自分で切り拓かねばなりません。

 当時に話を戻しますが、どうやって申し込めばよいかは友人も教えてくれない、正解がない。

 そんな中で勉強会が終わった瞬間に電光石火の速さで先生の正面に正座し、「先生、私をここで学ばせてください。お願いいたします。」と手をついてお願いしました。

 一瞬その場に緊張感が走るも「いいよ〜。」という一言。周りにいた方達は特に何も言いませんでしたが何となく、ようこそ、みたいな空気は感じました。

 もうこういうところから学ぶということなんだと当時はしみじみ思いました。

 ホームページもありませんのでその場で言わないともうチャンスがありませんから私も必死でした。

 ちなみにその前に勉強に行っていた整体の先生の時も似たような申し込みでした。

 そのように、学んだところではこうする、あ〜するみたいな丁寧な説明はなく、わからなければこちらから聞く、です。

 ちょっと愚痴を言わせてもらうと、なんなんだ今は、と思うことはよくあります。

 てめえ金払えば来れると思ったら大間違いだボケ、と思う時もあります。

 サービス受けてんじゃねえよ、お客様かお前は、と思うときもあります。

 言葉が過ぎました、失礼いたしました。

 とにもかくにも学びがサービス業と化していると感じることが多いなと感じていますし、同時に受講生は総じて待ちの姿勢、傍観者の姿勢が多いなと感じることもあります。

 私のところでは、当然お金をいただいていますからそれなりの事はしますし、無用に不便をかける必要はなく、そんなことはしません。やり取りも書状ではなくLINEを使っています。

 ただ、私は便利さを提供することが役務ではなく、それは最低限のマナー分はやりつつも、学びを提供するという事ですからそこを責任を持ってしているという自負はあります。

 私のところはホームページはある、問い合わせフォームもある、でも実際にスクールでは、

「相互にコミュニケーションを取る中でやっていきましょう、ですからルールは最低限しかありません。わからなければ聞いてください。」

 とお伝えしています。

 ルールはつくりすぎると結果的にそこに縛られることになりますし、学ぶということの本質から外れてしまう可能性もあると考えています。

 さて話を活法に戻すと、入門の了承を受け、そこから6年間という期間、毎週の学びが始まるということになりますがそれはまた。

 学ぶというのは申し込みやその段階から始まっている、何気ないやり取りも、と考えているというのが私の信念です。