久しぶりにかなり怒っている。

 

 正確に言うと怒っていた、怒りは自分の中の未成熟の部分から起因するとか、怒りは期待から生じるとか、そんなものはどうでもよく私にとっては怒りが湧いたという事実が重要だ。

 

 では何に怒っていたのかと言うと、それが今回のお題。

 

 私は日常的に人の人生に関わる仕事をしている。

 

 大袈裟ではなく。

 

 基本淡々と、時に飄々と、時に冗談も、時にではなく悪態もね、*スクールに入るとみんな知ることになるがブラックユーモアの塊である、品は損なわないようにだけ注意している。

 

 所在のはっきりしない性格だが、根底にあるのは絶対的な人の人生に対しての尊敬と尊重の気持ち。可能性に対しての揺らがない信念。総合すると覚悟がある。

 

 そして心の奥底には常に緊張感がある。*実際に緊張しているわけではない。

 

 人の人生に関わる仕事は、それが深ければ深いほどに私事を持ち出すことに対しての緊張感を持っていなければならない。

 

 私は常々人の人生が変わる瞬間、継続に携わる仕事をしたいと思ってきた、そしてしている。それを公言するということは同時に高度な緊張感を保ち続けるという事の覚悟を示し、自分自身に刻んでいるということになる。

 

 それができないならそのフィールドに立つべきではない。

 

 人の人生をもてあそんではならない。

 

 覚悟のない助言、私事の入った助言、もはやそれは助言ではないが、その人は苦しまなくてもよい苦しみを背負うことになることもある事を知ってほしい。

 

 そういう話を聞くと激しい怒りが湧く。人の人生を何だと思ってんだと。

 

 人は誰でも間違える、私もだ。しかし覚悟と緊張感がない、私事が入るというのは問題外だ。

 

 人の人生は重い、200人のクライアントの中の1人ではない。一人一人にはその人にしかない人格があり、ストーリーがあり、今があり、未来がある、そこに貴賤や軽重はない。

 

 ということで私は怒りは沸点を超えることはたまに、いや、けっこうあります。*後引くことはありません。

 

 ちなみに志は私情の塊です。