色々あって黙考期間に入っています。私にとっては黙考してこうやって文章を書いているのが、
何よりの滋養になります。
動画配信を始めていつの間にか95本になっていた。
1本長いもので40分、よくもまあこんなにあるなと思いますが、こんなのは
たぶん10%くらいしか伝えられていない内容。
自分では意識したことがなかったが、色々と積み上げてきたものが
あるということなんだろうと思うことにしています。
正直、養生法に関しては誰からも手ほどきを受けた事がない。
師匠がいないということ。
そういえば、誰かが「師匠がいない人は信頼できない。」と言っていた。
それを聴いて思ったこと。
「どうでもいいこと。」
師匠がいないから、アレンジして生まれたわけでもない、アレンジというのは何かを学んだという前提が存在
する。前提がないわけですからアレンジのしようもないという現実。
守・破・離という考え方は知っているが理解できていない、体験として理解できていないわけですから知らないに等しい。
なぜならその世界に身を投じたことがないから。
そんな人間もいるということ。
よく聴かれる、何であんなものをつくれたのですか?
嘘言えば「パクッたんだよ」
適当に答えれば「ふってきたんだよ。」
やや真面目に答えれば「必要に応じて」
もっと真面目に答えれば「ある動きが出来ない人を出来るようにするため」
本音で言えば「自分が衰弱していた時に掴んだ感覚の再現、それにどこまで近づけるか?」
ということに。
つまり、本音で言えば、まだ全然満足していないということ。
自分が求める感覚と再現性を求め続ける事が何より楽しい作業だということでもあります。
一つ分かれば、一つ分からない。
その一つを埋めていたら気付いたら今がある。
動画95本は目指してやったことではなく、色々な手法も数揃えたいからつくったわけでもないうということは
上記の通り。
しかし、その今でさえまた一つ埋めようとしている。
好きじゃないとできないことかもしれない。
いや、好きとか嫌いとか、そういう世界ではない。
やる、か、やらない、か。それだけのこと。
ただそこには一つだけ約束事がある。
それは、自分一人が満足するもには興味がないということ。
自分も満足し、求めている人も満足するもの。
それが不変の約束事。
義務ではない、プロとしても意識でもない、責任でもない。
ただ共有できる人と共有することが愉快でならないだけ。
だから人に伝えている今がある。