世良田山長楽寺 角大師は豆大師の御札 令和6年初詣(群馬県太田市世良田町) | まほろば御朱印紀行

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 令和6年1月3日、元三大師の縁日に世良田山長楽寺に参拝しました。

 最寄り駅は、東武伊勢崎線「世良田駅」になります。徒歩では15~20分位かと思われます。

 駐車場は、新田荘歴史資料館(URL:http://www12.wind.ne.jp/tomohm/)の駐車場を利用した方が良いかと思われます。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(上毛新聞社刊「ぐんまのお寺 天台宗Ⅰ」より)。
「東日本最初の禅寺で、関東十刹の寺として有名な長楽寺は、新田氏の祖義重の子徳川義季を開基とし、日本臨済宗の祖栄西の高弟栄朝を開山として、承久三年(1221)に創建された寺である。
 徳川義季は、童名を『らいわうごぜん』と称し(異説もある)、父義重から徳川、世良田女塚などの諸郷を譲られて領知し、徳川郷に住した。源頼朝に仕え、後家人としての活躍の様子は『吾妻鏡』に散見する。仏教にも関心が深く、晩年帰依していた栄朝を招いて長楽寺を創建した折、後鳥羽上皇から『東関最初禅窟』の勅額をいただいている。
 開山の釈円坊栄朝は、長楽寺の古文書によると、上野国那波郡の人で、武蔵国慈光寺の厳耀和尚について修行し、葉上流の灌頂を受け、さらに武蔵国岡部の即成坊聖豪から蓮一華院流の灌頂を受けた名僧である。そして比叡山で顕教と密教を学び、後に栄西の弟子として禅を修行した。こうして長楽寺を顕密禅の三学兼修の寺とした栄朝は、27年間長楽寺の住持を務めたが、宝治元年(1347)に83歳で入寂した。二世朗誉は、長楽寺住職から鎌倉の寿福寺長老となった人物であるが、建長寺長老の元庵は『日本国には過こう人分の智者なり、知恵も道心も有難き上人と見え侍りき』(『沙石集』)と評している。三世の一翁院豪も、傑出した名僧であった。密教を栄朝から受法し、中国の宋から帰国したばかりの正嘉二年(1258)に朗誉のあとを継いだ禅客兼修の僧であった。四世の断岸天空は不評の僧であるが、五世の月船探海は禅を求めて長楽寺の院豪を尋ね、やがて京都東
(中略)
 本来、長楽寺は新田氏ゆかりの寺であったが、足利氏多くの保護を加えたので栄えた。しかし、室町時代の後半から戦国時代にかけて、次第に衰退していった。江戸時代に入り寛永十七年(1640)に徳川家康は祖先開基の長楽寺が荒廃しているのを嘆いて、智恵袋と言われた天海僧正を長楽寺に入山させ、復興にあたらせた。天海は境内の整備と伽藍を修復するとともに臨済宗を天台宗に改宗し、寺内に元和元年(1615)造営の日光東照宮の社殿の一部を移築して勧請し、長楽寺をその別当寺とした 。寛永十年(1633)の『寺院本末帳』には、東叡山寛永寺末で、御朱印高三百石、末寺は寺中89寺を加えて百九ヵ寺とある。また、元禄十三年(1700)の『長楽寺末寺連印帳』にも、寺中八十九ヵ寺のほか天台宗九十九ヵ寺、臨済宗ニヵ寺あり、孫末寺を加えると数百ヵ寺を擁する天台宗別格大寺であった。そのため、『お江戸見たけりゃ世良田にごされ、世良田七宿七小路、お江戸勝りの長楽寺』と唱われるほど、盛大であった。
(中略)
 開山堂の南に、文珠山と呼ばれる前方後円墳がある。その後円部の壇上に、長楽寺第三世住職院豪が造立した鎌倉時代の石造宝塔がある。これは開基徳川義季供養のために建て られたもので、昭和三十六年(1961)に国の重文に指定された。台石底面に、建治二年(1276)12月25日の刻銘がある。このほか鎌倉時代の石造宝塔4基、異形宝篋印塔、板碑など、中世石造物が並んでいる。この石造物群の入り口に、近世の石造文珠菩薩像があることから、この山は文珠山と呼ばれるようになった。
 宝物としては、宝塔のほか新田義重譲状および置文、絹本墨画出山釈迦図、紙本墨書長楽寺文書(115通)の国重文をはじめ多くの県指定重要文化財と仏具類や仏教関係の記録類など、日本仏教史の貴重な資料があり、その一部は昭和六十年(1985)10月にオープンした東毛歴史資料館に常時展示されている。なお、長楽寺境内は、尾島歴史公園になった。」

 令和6年1月3日の元三大師の縁日に参拝しました。

勅使門。
 こちらの勅使門の由緒は次の通りです。
「群馬県指定重要文化財 長楽寺の勅使門
  指定年月日 昭和三十二年四月二十三日
  所在地 太田市世良田町3116‐3
 この門は、江戸時代東照宮の正門ともいわれた。勅使または幕府の上使が参拝するときにのみ使用され、それ以外は開かれることがなかった。そのため、「あかずの門」ともいい、俗に「赤門」ともいわれる。
 建築年代ははっきりしていないが、東照宮が遷宮された寛永二十一年(1644)と同時代に造られたものと思われる。東照宮に残っている修理棟札を見ると、この門は、上使門とも呼ばれており、東照宮付属の建物として、徳川幕府の手により修理が行われていた。
 神仏分離政策により明治八年、長楽寺、東照宮が分離された時、長楽寺に所属したものである。
 門の造りは、銅板葺四脚門、本柱・控柱ともに円柱である。軒は二軒半繁垂木、正面の控柱には頭貫を渡して、その中心に割束をもって丸桁を支えている。側面は頭貫上に割束を立て、虹梁を支え、その上に大瓶束を立てて棟木を支え、また、かぶら懸魚を用いている。
 昭和四十三年に解体修理をした時に、保存上から、位置を約2㍍西へ移した。
  昭和五十三年三月」

 蓮池と渡月橋。
 由緒は次の通り。
「長楽寺の蓮池と渡月橋
  所在地 太田市世良田町3116‐3
 この池は、長楽寺の住持義哲西堂の永禄八年(1565)の日記(永禄日記 県重要文化財)にもある池で、承久三年(1221)長楽寺創建当時の遺構を残す一つである。別名心字池ともいい、心の字をかたどってつくられ、南の池の二つの島は心の字の二点を現しているといわれる、以前は北の池に白、南の池に紅の蓮があり、盛夏の頃には池一面に紅白の花が咲き、さわやかな芳香があたりに漂っていた。
 中央にかゝる弧状の橋を渡月橋といい、後鳥羽上皇から下賜されたと伝えられる五面の勅額の一面に「渡月橋」とあるのは、この橋のことと考えられる。元は木橋であったが、寛政八年(1796)石橋に改められた。北側の橋桁の内側に御修復篠木勝左衛門外十六名と、棟梁市田吉左衛門、石工天野源兵衛の氏名が彫刻されている。
木橋当時の欄干の擬宝珠は現在の本堂(旧大師堂)勾欄の擬宝珠として保存されている。
 昭和五十七年、歴史公園計画事業の一環として、池の浚渫及び周辺の整備を行ったが、本格的な学術調査は後日をまつことになった。
なお。池の汀にある岩石は昭和四十四年護岸のために据たもので、元は素掘の池であった。

  (竜宮伝説)
 北の池は、底が竜宮に通じていて、何か必要なものがあれば、その品名を書いた紙を池に投げこむと、水面が渦巻いてその紙を吸いこみ、やがて忽然としてその品物が浮上するといわれていた。ある時、寺に大行事があって、千畳張りの蚊帳を借りた。それは蓮の糸で織られた精巧な蚊帳だった。寺僧がこれを惜しんで返さなかったため、以来、いくら紙を投げこんでも、池の水面には何の異変も起らなくなったという。」

 三仏堂
 山門
 両大師堂に通づる門
 本堂
 元三大師と慈眼大師が祀られており、両大師堂になります。
 毎年1月3日、元三大師の縁日に行なわれる「長楽寺流秘法大護摩供」が修されます。
 次の願意で祈祷をお願いできます。
「厄除 家内安全 合格祈願 就職祈願 商売繁盛 病気平癒 健康長寿 交通安全 良縁祈願 身体健全 安産祈願 安産子宝 無病息災 学業成就 心願成就 事業繁栄 ぼけ封じ 方位除け」
 上記の願意以外も受け付けているようだ。
 祈祷料は3,000円・5,000円・10,000円になり、御札の大きさが違います。

私は、角大師と豆大師の御札を頂きました。お布施は一組1,000円です。




寺院名:世良田山 真言院 長楽寺
所在地:群馬県太田市世良田町3119−6
宗 派:天台宗
寺格等:準別格大寺
本 尊:釈迦牟尼仏