埼玉県熊谷市の国道17号線の「上之」という交差点のすぐ北に寺院はありました。
寺院専用の駐車場はありました。自動車は、数十台は停められそうです。
こちらの寺院の由緒は、次の通りです(案内板による)。
「龍淵寺
開創 室町時代、応永十八年(1411年)
宗派 曹洞宗・本尊釈迦如来
開山 和庵清順大和尚(宗祖道元禅師より九代目の法孫)
開基 成田氏中興の祖・十二代成田左京亮家時
忍城主成田家代々の菩提寺
徳川家康と龍淵寺
家康公が鷹狩りの折、当寺の山号『太平山』は吉端なりと立ち寄ったところ、 ときの住職十二世呑雪和尚は、家康公の手習いの相手を務めた幼なじみ『種松』であったことから、その奇遇に喜び寺領の寄進を申し出た。
ところが、呑雪和尚『出家の身は財多きを喜ばす』と断ったが、翌年、家康公から『心おきなく修行が出来るように』と百石のご朱印(御判物)を賜る。
これより寺門大いに興隆し一大叢林となる。
宫家御祈願所
明治元年、官軍の指揮官、有栖川宮家の御祈願所となり今日に至る。
奥原晴湖の至
幕末から明治にかけて南画家として名を高め、木戸孝允らの知遇を受け画・漢詩・客が一体となった独自の画境を作り出した。
高浜虚子句碑(八十三歳の書)
昭和七年に当寺へ吟行の折に詠んだ句である。
御開山座像
紙塑人形創始者・人間国宝 鹿児島寿蔵作
成田氏の墓
宝篋印塔は左から十六代長泰、十七代氏長、十二代開基家時の墓である。二基の五輪塔は不明、板碑は十九代重長の子房長の墓である。
罹災
昭和二十五年一月の火炎で、残ったものは本尊釈迦如来像、山門と鐘楼、古記録では成田氏系図、成田記、成田家人分限帳と銅鈴のわずか四点。
昭和三十六年五十一世俊定和尚の代に復興なる。
鐘楼
忍城主氏長没後二百年を期し、鐘楼が建立されたが罹災し、平成二十二年開創六百年の記念事業として、寺史の編纂・報恩記念法要と併せて五十二世大龍和尚のに再建される。
鐘楼天井絵飛天双龍図
鐘楼再建を祝して、日本美術員同人の大野百樹画伯が、龍淵寺縁起に出てくる飛龍を、鐘楼の天井に描き奉納される。」
同市内に鎮座する上之村神社から自動車で5分位の所にあるお寺です。
忍城主成田氏の菩提寺となる寺院です。墓地には成田氏のお墓がありました。
山門です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200102/16/kokushimahoroba/11/64/j/o1080081014689328638.jpg?caw=800)
山門脇には青面金剛がおわしました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200102/16/kokushimahoroba/7c/81/j/o0810108014689328654.jpg?caw=800)
いわゆる庚申塔とも言いますね。
本堂になります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200102/16/kokushimahoroba/d9/9c/j/o1080081014689328662.jpg?caw=800)
本尊である釈迦牟尼仏が祀られています。
地蔵堂がありました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200102/16/kokushimahoroba/9c/29/j/o1080081014689328671.jpg?caw=800)
観音様。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200102/16/kokushimahoroba/e6/61/j/o0810108014689328679.jpg?caw=800)
忍城主の成田氏の菩提寺ですので、お墓がありました。
のぼうの城の成田長親の墓はありません。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200102/16/kokushimahoroba/15/31/j/o1080081014689328686.jpg?caw=800)
鐘楼堂の天井には大野百樹が奉納した飛天双龍図があります。
御朱印は、庫裡にて頂けました。御朱印代は300円です。
寺院名:太平山 龍淵寺
所在地:埼玉県熊谷市上之336番地
宗 派:曹洞宗
本 尊:釈迦牟尼仏
札所等:忍領三十四観音霊場 八番札所
御詠歌:名も高き 龍が淵なる 古寺に 成田の鶴の 法の声々