中国軍「ハニートラップ」の実態
スパイ活動は、中国軍の活動や戦略を支える伝統的な手法だ。
特に目立つのが、女性が色仕掛けで誘惑する「ハニートラップ」。
もちろん日本の男性も標的になる。
朝日新聞国際報道部の峯村健司記者が取材した——。
※本稿は、峯村健司『潜入中国 厳戒現場に迫った特派員の2000日』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
元米陸軍将校(59)が中国人女性(27)と交際
中国軍によるサイバー空間や宇宙開発など先進分野への進出が目立つ一方で、中国軍の活動や戦略を支える伝統的な手法が、スパイ活動だ。
担うのは、総参謀部(現・連合参謀部)第2部(総参2部)。
内外でうごめく数万人と言われる諜報員を束ねている。
多くの日本人が観光で訪れる米ハワイ。
地元の連邦地検は2013年3月、元米陸軍将校の男(59)を国防機密漏洩などの罪で逮捕、刑事訴追したと発表した。
交際していた中国人女性(27)に米軍の戦略核の配備計画や弾道ミサイルの探知能力、太平洋地域の早期警戒レーダーの配備計画などの軍事機密を漏らしたとされる。
この男は軍歴30年に及ぶベテラン。
米太平洋軍司令部に勤務しており、最高機密にも触れることができた人物である。
検察によると、2012年に退役して、米軍が契約する防衛関連企業で働いていた。
彼は11年5月にハワイで開かれた軍事関係の国際会議で、大学院生として参加していたこの中国人女性と知り合って、翌月には交際が始まったという。
「女性の研究を手助けしようと思った」
自宅からは、米軍の対中戦略や米韓合同演習に関する機密文書などが見つかっており、これらの文書を電子メールで女性に送っていたようだ。
調べに対し、機密文書を自宅に持ち帰ったことについて、「女性の研究を手助けしようと、自分で勉強する目的で家に持ち帰った。女性が中国当局とつながっていたことは知らなかった」と供述しているという。
この中国人女性は、研究員や研修生向けの「交流訪問者ビザ」で米国に入国し、米国内の大学に在籍していたが、詳しい身元やその後の行方はわかっていない。
一方検察当局は、米軍の重要な機密情報が外に漏れた事実を重くみて、この男に対して禁錮20年、罰金50万ドル(約5500万円)を求刑。
地裁は14年9月に女性への機密漏洩を認定して、禁錮7年以上の判決を下した。
色仕掛けで弱みを握る「ハニートラップ」
中国にとってハワイはどのような場所なのだろうか。
太平洋軍司令部に勤務したことがある米軍元幹部は言う。
「中国はハワイを情報収集の重要拠点と位置づけており、軍や情報機関が相当数の諜報員をハワイに送り込み、太平洋軍の情報を手に入れようとしている。そのため、米当局は警戒を強めており、中国政府が以前からホノルルに総領事館をつくることを求めているが、米政府はそれを認めていない。中でも女性を使って接触を図るケースが目立つ」
スパイが色仕掛けで外交官や軍当局者を誘惑したり、弱みを握って脅したりする諜報活動は、「ハニートラップ」と呼ばれる。
諜報対象は、米国だけではなく、その同盟国にも広がる。
米国の同盟国で安全保障を担うある政府幹部は、2016年にホノルルで開催された会議に参加した時のことを振り返る。
「各国から軍事・防衛当局の幹部らが集まる会合でのことです。一連の会議が終わり、最終日の夕食会がホノルル市内のホテルでありました。中国代表団の中には、昼間の会合には出席していなかった20代後半か30代前半の女性がいました。長身でスタイルが良く、チャイナドレスに身を包んでいました。年配の男性中心の会場では存在が際立っており、他国の軍幹部に積極的に声をかけていました。私にも声をかけてきて、『一緒に飲みに行きましょう』と誘われたり、携帯番号を尋ねられたりしましたが、断りました」
上海の日本総領事館で自殺した40代男性
日本も対岸の火事ではない。
2004年5月、中国・上海の日本総領事館に勤務していた40代の男性領事が中国側から外交機密に関連する情報などの提供を強要されていたという遺書を残し、総領事館内で自殺した。
領事は外務省と総領事館の暗号通信を担当していた。
「公電通信担当の上海総領事館員が自殺 『中国が外交機密強要』と遺書」(読売新聞2005年12月27日朝刊)
この領事は、ある中国人女性と交際していた。
この女性は上海市内のカラオケクラブ店に勤めており、2人はこの店で知り合ったという。
中国のカラオケクラブは、個室になっていることが多く、ホステスが同席する。
この店の名は「かぐや姫」。
日本総領事館をはじめ日系企業の事務所が集中する市西部の虹橋地区にあり、客のほとんどが日本人だったという。
しだいに、中国の情報機関である国家安全省の当局者がこの女性を通じて領事に接触してくるようになり、総領事館内の内部情報を求めてきたという。
事件の内情を知る日本政府関係者は次のように証言する。
「この領事は遺書で『一生あの中国人たちに国を売って苦しまされることを考えると、こういう形しかありませんでした』と記されていました。自身が担当していた暗号通信の情報を渡すように脅されると考え、自らの命を絶ったようです。邦人が最も多く住む上海には、情報機関とつながりがある日本人向けのカラオケクラブ店が多数あり、『かぐや姫』もその一つでした」
「かぐや姫」の女性に入れ込んだ1等海曹
「かぐや姫」に通っていたのは、この領事だけではなかった。
上対馬警備所(長崎県)に勤務していた40代の1等海曹が2006年8月、無断で海外旅行を繰り返していたとして停職10日の懲戒処分を受けた。
海上自衛隊によると、1年2カ月の間に8回にわたって計71日間、上海に渡航していた。
親しくなった「かぐや姫」の女性に会うためだったという。
この海曹はこの年の2月、持ち出し禁止の内部情報を基地内の隊舎に保管していたことが発覚し、口頭注意の処分も受けている。
海上自衛隊は、「渡航と持ち出しは無関係。内部資料を海外に持ち出したり情報を漏洩したりした事実はない」とする調査結果を公表している。
だが、警察当局によると、海曹は現金約350万円を女性に送金するなど「資金援助」もしており、2人の親密ぶりがうかがえる。
さきの領事のケースを考えると、中国の情報機関が、この女性を通じて海曹に接触していた可能性は否定できない。
「上海カラオケ店の謎 スパイ拠点? 警察強い関心 海自1曹無断渡航」(朝日新聞2006年8月5日朝刊)
プロのエージェントだけではなく、留学生や研究者からホステスまでを使い、きわめて幅広く情報を集めている中国の手口が浮かび上がってくる。
あらかじめ狙いをつけた対象者からピンポイントで情報をとるのではなく、広く網をかけてすくい上げる。
こうして収集した膨大な情報から有用な情報を抜き出すやり方だ。
中国の情報活動に詳しい日本政府関係者はこう認める。
「中国による人を使ったスパイ活動は、質量ともに世界最大規模と言える。だが、あまりにも多すぎて、全体像すらつかみ切れていないのが実情だ」
では、いったいどのような女性がどのようなきっかけでスパイ活動に手を染めるようになるのだろうか。
実際にスパイ活動に携わっていたという中国人女性から話を聞くことができた。
いとこに「軍関係のいい仕事」と紹介され…
目の前に現れた女性は、身長170センチ、モデルのような体形だった。
北京市内の民間企業の受付で働く23歳。
色白で、口尻にえくぼの出る微笑が印象的だ。
内陸部の農村出身。
17歳のとき、軍で働くいとこから、「北京で軍関係の良い仕事があるから来ないか」と誘われた。
アパートも手配してくれて、報酬も同年代の友人の倍以上もらえるという。
二つ返事で受け入れた。
北京に着くとすぐに、いとこと一緒に「局長」と呼ばれる軍幹部と会った。
「局長」はある欧米人男性の写真を見せながらこう命じた。
「あなたには特務をしてもらう。この男性に接触して身辺情報を集めてくるように。あと、任務のことは一切、他言してはならない」
対象男性の職業や名前は教えてもらえなかった。
ただ、北京市中心部の繁華街、三里屯にあるバーの店名と住所だけを告げられた。
カナダやオーストラリア、ドイツの各大使館の近くにある。
対象男性の行きつけだと説明された。
女性は翌日の晩、指定されたバーに向かった。
ダンスホールでは、外国人客が大音量の音楽に合わせて踊っていた。
地元の農村では外国人を見たことがなく気後れしたが、見よう見まねで体を揺らしていると、男性客から次々と声をかけられた。
そのうちの一人に対象男性がいた。
写真で見た通りだった。
流暢(りゅうちょう)な中国語で「一緒に飲もう」と声をかけられた。
話している内容から、大使館で働いていることがわかった。
誘われるまま、バー近くにある男性のマンションに向かった。
「マッサージ師」として潜入を命じられた
翌日、女性が「局長」に成果を報告するとほめられた。
報酬として数千元(1元=約16円)をもらった。
そして「交際」を続けるよう言われた。
男性の出張予定のほか、同僚の名前や行動についても聞き出し、毎月1回のペースで報告するように指示された。
この女性はサウナ店への潜入を命じられたこともあったという。
中国のサウナ店にはマッサージが併設されていることが多い。
中国では売春は違法だが、裏で性的サービスを提供することもある。
「局長」から指示されたのは、北京市内で大使館や外国企業が集まる地域にある高級サウナ店だった。
そこで「マッサージ師」として1カ月ほど働いた。
タンクトップにミニスカート姿で、対象男性らに「治療」にあたった。
マッサージをしながら売春をするように誘惑した。
自身は売春はせず、別のその後、対象男性がどうなったのかは分からないと言う。
その後、対象男性がどうなったのかは分からないと言う。
女性は2年ほど働いてこの仕事から足を洗った。
「いとこから『愛国のために協力してほしい』と言われたので始めたのですが、将来性がなく、苦労のわりに稼ぎが良くないのでやめました。やはり人をだますことには罪悪感がありました」
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峯村 健司(みねむら・けんじ)
朝日新聞国際報道部記者。
1997年入社。中国総局員(北京勤務)、 ハーバード大学フェアバンクセンター中国研究所客員研究員などを経て、アメリカ総局員(ワシントン勤務)。
優れた報道で国際理解 に貢献したジャーナリストに贈られるボーン・上田記念国際記者賞受賞(2010年度)。著書に『十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』(改題した文庫『宿命 習近平闘争秘史』)など。
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峯村健司『潜入中国 厳戒現場に迫った特派員の2000日』(朝日新書)
【ハニトラ女性画像】