尖閣諸島戦時遭難事件#1
上陸してからも毎日毎日、人が死んでいった――。
終戦直前、多くの日本の民間人を乗せた疎開船が遭難し、無人島だった尖閣諸島に流れ着いた。
しかし、そこから120人を超える遭難者集団による飢えの過酷な日々が始まった。
尖閣諸島で起きた秘史について、昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。
◆ ◆ ◆
凄惨極まる事件の舞台となった尖閣諸島
「尖閣諸島」という言葉を聞くと、日本人は何を思い出すであろうか。
大半の方は、中国の領土的野心について連想するであろう。
だが、この島で起きた戦時中の「秘話」についても、ぜひ知ってほしい。
この島は、決して忘却してはいけない凄惨極まる事件の歴史的舞台でもあったのである。
大東亜戦争終戦の前月にあたる昭和20(1945)年7月、沖縄県の石垣島から台湾へ向かう2隻の疎開船が、米軍機の攻撃にさらされた。
「尖閣諸島戦時遭難事件」の始まりである。
石垣島から台湾へ、避難指示が出されていた
「友福丸(第一千早丸)」と「一心丸(第五千早丸)」という2隻の小型船が石垣島の港を出たのは、昭和20年6月30日の夜のことであった。
米軍による石垣島への空襲や艦砲射撃が日に日に激しさを増す中、民間人に対する台湾への避難指示が出された結果である。
船に乗っていたのは、一部の軍人や軍属を除き、その大半が老人や女性、そして子どもであった。
2隻を合わせた乗員の総数は、180名余りだったと推計されている。
ただし、混乱の中での出発であり、正確な数字はわかっていない。
石垣島を出た友福丸と一心丸は、7月1日の午前2時頃に西表島の港に寄港。
同日の夜に改めて出航する予定であった。
しかし、友福丸の機関に故障が発生したため、予定は延期された。
結局、2隻が西表島を出たのは、7月2日の夜となった。
2隻は米軍の攻撃を回避するため、最短航路ではなく尖閣諸島の近海を迂回するルートを選択した。
夜に出発したのも、敵機に見つかりやすい昼間の航行時間をなるべく短くするためである。
だが、結果としては、そのような努力は実らなかった。
米軍の爆撃機が低空飛行して、激しい機銃掃射
翌3日の午後2時頃、2隻の上空に米軍の爆撃機が姿を現した。
2隻はちょうど、尖閣諸島の付近を航行中だった。
爆撃機は一気に低空飛行に入り、2隻に向けて激しい機銃掃射を始めた。
一心丸は備え付けられていたわずかな機銃で果敢に応戦したが、甲板にいた疎開民たちはあえなく薙ぎ倒されていった。
その時の生存者の一人であり、当時、24歳だった大浜史という女性は、後にこう記している。
血の海と化した甲板、子どもたちは泣き叫んだ
甲板上は一瞬にして血の海と化した。
女性の絶叫や、子どもの泣き叫ぶ声で船上はまさに「地獄絵図」となった。
米軍機はその後も攻撃を執拗に繰り返した。
やがて、一心丸の船体から轟音と共に大きな黒煙が上がった。
燃料タンクが爆発を起こしたのである(弾薬が爆発したという説も有)。
燃料タンクは船体の中央部にあったため、乗客たちは船の前方部と後方部に退避した。
しかし、炎は一挙に燃え広がった。
とりわけ船尾のほうが火の回りが早かった。
爆発の結果、船内への浸水も始まった。
行き場を失った乗客たちはやむなく、海へと飛び込んだ。
しかし、彼らに安全な場所などすでになかった。
波間に浮かぶ人たちに対しても、容赦のない機銃攻撃が浴びせられたのである。
米軍機の搭乗員の目にも、一心丸が軍艦などではなく、その乗員の大半が民間人であったことは容易に認識できたはずである。
しかし、疎開民への攻撃は一向に止まなかった。
疎開船を含む民間船への攻撃は国際法で禁じられていたが、米軍は戦争末期、すでに「無差別攻撃」の段階へと入っていた。
結局、一心丸は沈没。
海の藻屑となった。
生存者たちはなんとか波間に身体を浮かせようとしたが、老人や幼児など、体力のない者から海中に消えていったという。
海に投げ出された乗客を救助した友福丸
同様の悲劇は、友福丸でも発生していた。
当時、3人の幼い子どもを連れて友福丸に乗船していた慶田城秀はこう回想する。
〈しばらくすると、敵の大型機が現われ、私たちの船に襲いかかった。バリ、バリッ……と機銃弾がそこらにはじけ、たちまち大騒ぎとなった。私はとっさに、おにぎりを入れてあった竹籠を息子(長男)の頭の上に置いてかばった。気づいてみると、なんと息子の首筋から右肩が真っ赤になっている。即死であった〉(『市民の戦時・戦後体験記録 第二集』)
友福丸にも多くの犠牲者が発生した。
ただし、友福丸では一心丸のような燃料タンクの炎上は起きなかったため、沈没は免れることができた。
爆撃機が去った後、友福丸の船員たちは一心丸の乗客の救助活動に入った。
船員たちは救助ボートやロープを使って、波間に浮かぶ人々を救出した。
こうして漂流者たちは、友福丸に収容された。
婦女子が優先的に救助されたという。
多数の負傷者を抱えながら漂流
しかし、友福丸も機関部分を損傷していた。
それでもなんとか航行を続けたが、やがてエンジンが停止。
航行不能の状態に陥ってしまった。
こうして友福丸は、大勢の負傷者を抱えながら尖閣諸島の沖合を漂流することになった。
真夏の強烈な太陽が照りつける中、船上はうだるような暑さだった。
生存者たちは深刻な水不足に苦しめられた。
そんな中、一心丸で機関長を務めていた金城珍吉が、仲間たちと共に友福丸の機関部の修復を始めた。金城はこの時のことを後にこう綴っている。
〈初めからやりなおしでパイプ類をまげなおし石油タンクをデッキに上げ、それに長い棒をくくり付け四人掛りで、ポンプをおさせた。それが成功しバーナーが勢い良く吹き始めた〉(『沖縄県史 第10巻』)
「あの島には湧き水がある」尖閣諸島・魚釣島へ
一夜明けた4日の午前7時頃、金城らの懸命の作業の結果、友福丸は再び航行する力を取り戻した。
船内の人々からは、「助かった!」といった歓喜の声があがった。
友福丸が目指した先は、尖閣諸島の魚釣島だった。
かつて鰹節の加工で賑わった魚釣島だが、この時は無人島になっていた。
しかし、以前に鰹漁の際に魚釣島に滞在した経験があるという一人の漁師から「あの島には湧き水がある」という情報がもたらされたのである。
友福丸はこうして魚釣島に向かった。
飲み水を確保することが、上陸の最大の目的であった。
しかし、彼らの悲劇はなおも続くのである。(文中敬称略)
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>自分はこういう当時を語って頂いたものにコメントはしません。
何故なら同じ状況でも、語る人によって捉え方が違うからです。
同じ現場にいても、その場その場の状況が違う場合もあります。
また人によっては大袈裟に発言する方や、当時は必死で、覚えてない記憶もあると思います。
ですから記事を載せる以外は、明らかな嘘でない限りは、絶対にコメントはしません。
また加筆・省略も致しません。
大切な語り部の御意見として聴かせて頂くだけです。
当時の事を、こんな短文(文章)だけで、表現(書ききれる)できるものではない。
当然、他の例でも同じですが、御了承ください。
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「上陸しても次々と人が死ぬ飢餓地獄」尖閣に漂着後の“無人島生活”を生き延びた日本人の証言
尖閣諸島戦時遭難事件#2
いきなり始まった「無人島生活」
尖閣諸島の沖合で米軍機の襲撃に遭った疎開民たちは、傷ついた船で尖閣諸島の魚釣島を目指した。
石垣島の北西約170キロの位置にある尖閣諸島は、魚釣島や北小島、南小島、久場島、大正島などから構成される。
3・8平方キロメートルほどの面積を持つ魚釣島は、その中で最大の島である。
明治時代には筑後国上妻郡(現・福岡県八女市)出身の実業家である古賀辰四郎が、島内に鰹節工場を建設。船着場も設けられた。
最盛期には250名ほどが暮らしていたとされる。
しかし、昭和15(1940)年に事業は停止。
人々は島を去った。
尖閣諸島・魚釣島の岩だらけの海岸(1979年) ©️共同通信社
島に閉じ込められ、負傷した腕からはウジが…
それから5年後、疎開船を攻撃された漂流者たちが、無人島となっていたこの島に上陸を果たしたのである。
昭和20(1945)年7月4日のことであった。
この時に上陸した人の数は正確には不明であるが、120名以上はいたという証言が多い。
漁師の証言通り、島内には確かに天然の湧き水があった。
漂流者たちはこの湧き水によって、ようやく喉の渇きを癒すことができた。
その後、石垣島に救助を求めに行くために、一部の者たちが友福丸に戻った。
だが、直したばかりの機関が再び故障。
計画は断念せざるを得なくなってしまった。
友福丸はやむなく海上に放棄された。
こうして漂流者たちは、魚釣島に閉じ込められるかたちとなった。
この島で救助が来るのを待つことになったのである。
しかし、彼らを取り巻く状況は極めて悪かった。
米軍機の攻撃時に重傷を負った者も多く、傷跡にはすぐにウジが湧いた。
遭難者の一人である石垣ミチはこんな話を伝える。
〈朝鮮の女の方で腕をやられ、わずか皮だけで腕がぶらさがり、その腕から湯呑み茶わんいっぱいくらいのウジがでてきました。この方は泣きながら、ぶらさがっている腕を切ってくれと嘆願して、どうにもならないのでカミソリで切ってやりました〉(『沖縄県史 第10巻』)
次々と人が死んでいく「飢餓地獄」
漂流者たちは島内に群生するクバ(ビロウ)などを重ねて屋根代わりにし、その下で暮らした。
漂流者たちの主食となったのも、このクバの茎や若葉であった。
当初は船内にあった米や味噌、各自の携行食などを集め、共同で炊事をして分け合いながら食べていた。
しかし、少ない具の量を巡って、諍いが起きることもあった。
その後、それらの食糧が尽きると、各自で食べ物を調達するようになったのである。
漂流者たちはクバの茎をそのまま生で食べたり、水煮にしたりした。
その他、サフナ(長命草)やミズナ(ニンブトゥカー)なども口にしてなんとか飢えを凌いだ。
漁のできる技術や体力のある者は魚や貝、海藻などを採集した。
ヤドカリやトカゲを捕まえて食べる者もいた。
岩の窪みに溜まったわずかな塩を集めて舐めた。
それでも食糧はまったく足りなかった。
一部には、食糧を独り占めしようとしたり、他人の分を盗み取ろうとする者も出た。
5人の子どもを連れた母親だった花木芳は、島での体験をこう記す。
〈そのうちに食べものも無くなり、栄養失調になって動けなくなってからは、顔も体もよごれ放題、青ぶくれしてお腹も腫れて、このまま死んで行くのではないかと思っていた。
島で一番初めに亡くなったのは、離れに住んでいたンミ(婆さん)だった。くばの葉の下に、手を組んで膝を抱いて座るようにしていらっしゃるので、「ご飯ですよう」と声をかけても聞きなさらないから、「婆ちゃんを呼んでおいで」と子どもをよこしたら、「あのばあさん、死んでいるよ」と子どもにいわれて初めて知った〉(『市民の戦時・戦後体験記録 第二集』)
尖閣諸島 ©️文藝春秋
毒のある豆を食べて中毒死する人も…
毒のある豆を食べた者が中毒死する事件も起きた。
当時、10歳だった石垣正子は、次のように回顧している。
〈ある日、キヌ姉が山の向こう側の浜に豆が生えていると言うので、二人で豆を取りに行きました。それは丸っこい葉で蔓がそこらいっぱいにのびて、空豆に似た豆がいっぱい生えていました。その豆を煮て食べたら吐いたり下したりで、キヌ姉は祖母にさんざん叱られ、キヌ姉はどうしてこんなになるまで食べるのと私を怒り、大変な事になりました。この毒豆で死んだ幼子もありました〉(『沈黙の叫び』)
このような毒豆を食わずとも、重い下痢に悩まされる者が多かった。
こうして漂流者たちの身体は、みるみる衰弱していった。
重度の栄養失調に陥る者が続出し、餓死者が相次いだ。
当時、17歳だった屋部兼久は次のように証言する。
〈上陸してからも毎日毎日、人が死んで行きました。弱った老人がたおれ、負傷した人、子供の順で死んで行くのです。埋葬しようにも硬い岩根の島で、穴が掘れないのです。離れた所に石をつみ上げてとむらいました〉(『沖縄県史 第10巻』)
小さな帆船を製作し、決死の脱出計画
島には時折、米軍からの空襲もあった。
漂流者たちを巡る状況は悪化するばかりであった。
絶望的な日々が続く中、状況を打破するための一つの試みが始まった。
8月上旬、一部の漂流者たちが「サバニ」と呼ばれる小さな帆船の製作を始めたのである。
サバニは南西諸島で古くから漁のために使われてきた小舟だが、漂流者の中に船大工がいたのだった。
流れの速い黒潮に囲まれた魚釣島には、岸に何隻かの難破船の残骸があった。
それらの難破船の木材や釘が、サバニの貴重な材料となった。
釘は錆びついていたものを伸ばして使った。
婦人たちは衣服などを縫い合わせて、船の帆をつくった。
こうして全長5メートル、幅2メートルほどのサバニがついに完成した。
敵機からの機銃攻撃によって船体に穴が開いた場合のことを考えて、様々な大きさの木の栓も用意した。
止水用の栓である。
尖閣諸島・魚釣島で昭和15年まで住民が活用していた水路。左奥の岩に灯台がある(海上自衛隊対潜哨戒機から、2010年撮影) ©️時事通信社
石垣島に向かう9名の「決死隊」を結成
こうしてこの船を使って石垣島まで連絡を取りに行く「決死隊」が結成された。
選ばれたメンバーは、一心丸の機関長だった金城珍吉をはじめとする9名の男たちである。
決死隊が魚釣島を出たのは、8月12日の夕方であった。
9名は島に残る者たちが歌う「かりゆし」の歌声と共に送り出された。
十分な材料もない中で急造したサバニでの航海は、まさに死を覚悟したものだった。
決死隊の面々は出発前、自身の頭髪や爪を切り、島に残る者たちに預けていた。
もしもの時の「かたみ」であった。
サバニはやがて島の沖合に出たが、風も順風とは言えなかった。
6名が漕ぎ手となって、懸命に櫂を漕ぎ続けた。
翌13日は、不運にもほとんど無風となった。
さらに途中、3回ほど米軍機が上空に現れた。
しかし、そんな危機にも「決死隊」は冷静であった。彼らはサバニをわざと転覆させて舟の下の海中に身を隠し、無人の転覆船を装ってやり過ごしたのである。
14日、ついにサバニは石垣島に到着。
駐屯する日本軍の守備隊に遭難の情報を伝え、救助を求めることができた。
魚釣島から見えた「日の丸」
だが翌15日、大東亜戦争は終結。
日本は敗戦国となった。
無論、魚釣島に残っている者たちは、玉音放送のことなどつゆ知らず、助けが来るのをひたすら待っていた。
魚釣島の上空に日本軍の機体が姿を現したのは、16日のことである。
最初、機影を発見した漂流者たちは、(また敵機か)と思い、岩陰に身を隠した。
しかし、機体に「日の丸」が見えると、一斉に歓喜の声をあげた。
漂流者たちは涙を流して喜び合い、機体に向けて懸命に手を振った。
島の上空を旋回した機体は、落下傘に吊るした筒を落として飛び去っていった。
筒の中には、乾パンや金平糖などの食糧が入っていた。
魚釣島には航空機が着陸できるような場所がないため、救助は艦船で行うことになったが、まずは食糧の投下を実行したのである。
食糧を得た漂流者たちは、(もう大丈夫)と心から安堵した。
しかし、中には身体が衰弱し切っていて、もはや手遅れの者もいた。
分けてもらったばかりの金平糖を握りしめながら息絶えた者もいたという。
それから2日後の18日の早朝、生存者たちは島に近づいてくる3隻の救助船を発見した。
生存者たちはクバの葉を燃やした煙で合図を送った。
こうして漂流者たちは救出された。
生存者たちは次々と救助船に収容されたが、島で亡くなった者たちの遺骨を持ち帰ることはできなかった。
帰還後にも起きた悲劇
救助船は8月19日に石垣島の港に帰港。
桟橋には出迎えの人たちが多く集まっていた。
台湾に向けて石垣島を出発した日から、すでに約50日が過ぎていた。
そしてこの時、彼らはようやく日本の敗戦について知ったのである。
魚釣島から生還することができたにもかかわらず、その後に栄養失調などの影響で命を落とした子どもたちもいた。
宮良廉良とその妻である幸子の間には二男五女があったが、魚釣島から石垣島に戻って1週間後、五女で3歳の洋子が絶命した。
洋子は床に就いてはいたが、前日まで時おり笑顔さえ浮かべていた。
父はそんな洋子を見て、「子どもたちが元気になった」とおどけて踊ってみせていたという。
さらに翌月には、次男で1歳の邦雄も旅立った。
束の間の幸福な時間は、脆くも瓦解した。
この一連の遭難事件の犠牲者数には諸説ある。
米軍の銃撃から魚釣島で死亡した方々すべてを含めると、延べ100名前後の方々が命を落としたのではないかとされている。
終戦翌年の昭和21(1946)年、遺族らによる魚釣島への遺骨収集が行われた。
昭和44(1969)年には、当時の石垣市長らが魚釣島に上陸。
「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」が建立され、慰霊祭が執り行われた。
石垣市にある「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」に手を合わせる生還者(2015年7月) ©️時事通信社
しかし以降、魚釣島での慰霊祭は、一度も実行されていない。
遺骨収集も進む気配がない。
多くの遺骨はいまだ島内に取り残されたままである。(文中敬称略)