雌阿寒岳 | 国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

国立公園内を走る鉄道の紹介と風景の発見
車窓から眺めて「これはいい」と感じた風景の散策記

[国立公園鉄道の探索]

雌阿寒岳

(阿寒摩周国立公園)

 

 

 

 

雌阿寒岳に登ってきました。

 

それではこれから、阿寒摩周国立公園のクライマックス(最高所)・雌阿寒岳の風景を眺めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

野中温泉の登山口から登りました。

樹林帯を抜け、ハイマツ帯に入ると広々とした北海道の大地が見渡せます。

 

「日本は狭く、小さい国である」という常套句は幻想ではないかと思われました。

 

 

 

樹林に縁どられた秘湖・オンネトーも見えました。

 

 

 

途中でお会いした女性山岳ガイドの方から、全山雪で覆われる冬季は、この谷を登った方が早く山頂に到達できる、という話も聞きました。

 

もちろん冬山に精通した熟練登山者に限ってのことですが。

 

 

 

 

 

 

 

森林限界の低い雌阿寒岳は、ハイマツ帯を抜けると荒々しい火山礫に覆われた岩山となります。

 

火口周辺立ち入り規制は発令されていませんが、雌阿寒岳は現在も火山活動継続中の山です。

 

 

 

 

 

 

 

 

この火口壁の稜線を辿って頂上へと向かいます。

 

 

 

火口を覗き込むと、切り立ったた岩肌の底に赤沼が見えました。

 

 

 

 

 

 

 

雌阿寒岳・ポンマチネシリ(1499m)の山頂に着きました。

阿寒摩周国立公園の最高所です。

表示版は新しいものに更新されたようです。

 

阿寒湖と雄阿寒岳の向こう側、

青蒼の彼方に知床の山々も望まれました。

 

 

噴煙を上げる火口の背後の山は阿寒富士(1476.3m)です。

 

 

 

 

 

 

阿寒国立公園の雌阿寒岳山頂付近、丁度画像に映っているあたりには大きな硫黄鉱床がありました。

 

戦前、古くは江戸時代から小規模な採掘がなされた記録があります。

戦後の1951(昭和26)年には、日本特殊鉱業株式会社からかなり規模の大きな採掘計画が申請されました。

 

当時国立公園行政を管轄していた厚生省や国立公園審議会、そして地元観光協会は、雌阿寒岳山頂部は国立公園の核心地域であり景観を損なう、ということで反対しました。

 

しかし、当時の厳しい経済情勢から「例外中の例外」という厚生大臣の政治判断により硫黄採掘計画は認められることになりました。

 

そのころの日本は、「希少金属を含む多くの地下資源を輸入に頼って経済復興に繋げており、その輸入枠を世界原料会議から割り当ててもらうため硫黄を輸出しなければならなかった」という事情もあったようです。

 

1956(昭和31)年には、松尾鉱山に続き、国内第二位の産額となった雌阿寒岳の硫黄鉱山ですが、その後、石油使用が増大する時代が訪れ、石油の精製、脱硫の過程で硫黄が生産されるようになり、天然硫黄の採掘は不採算となったため、雌阿寒岳の硫黄鉱山の操業も1962(昭和37)年には休止されます。

 

操業期は、搬出用の索道も設置された硫黄鉱山ですが、今はその跡形はほとんど見られません。

 

 

 

 

噴煙を上げる生々しい火口の背後には碧山が連なっています。

 

この風景と邂逅できたのは幸運だと思いました。

 

活発な火山活動を続ける山ですから、いつ登山禁止になるのかわからない、そして噴火の後は別の風景に変わっているかもしれませんから。

 

日本の国立公園風景に惹きつけられる理由、それは世界一激しい変動帯に置かれた大地が変動と再生の中でみせる一瞬の輝きを見ることができるところにあると思います。

 

 

 

 

 

火口で青沼がキラキラしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠望すると、円錐形の阿寒富士の方が高く感じられることもありますが、最高峰雌阿寒岳の山頂からは、やはり見下ろすようになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

降りるときは慎重に進みました。

 

 

 

峻険な山頂部から樹木と湖の風景帯に移ります。

 

オンネトーから、今一度雌阿寒岳を望みます。

 

僅かな距離のうちに次々に変わってく風景、それが日本の、とりわけ北海道の風景の魅力と感じられました。