[ 国立公園鉄道の探索 ]
琴電屋島から瀬戸内海国立公園・屋島へ
琴電屋島駅から瀬戸内海国立公園・屋島に向かいます。
琴電の駅には、リニューアルされ、斬新な雰囲気の駅もありますが、琴電屋島駅は古風な佇まいが保存されています。
駅前から屋島が望まれます。
この道を山麓に向かって進むと、かつては屋島ケーブルの屋島登山口駅に行き着きました。
2005年8月に廃止されましたが、山中に軌道が敷かれていた痕跡もみてとれます。
今は、琴電バスが山上へ向かう公共アクセスの役割を担っています。
屋島山上には「瀬戸内海国立公園 屋島」の案内板が設置されています。
1934(昭和9)年3月16日に誕生した瀬戸内海国立公園は、雲仙、霧島と並んで日本で最初に成立した国立公園です。
成立当初、屋島は、その中核的景勝地と位置づけられていました。
日本の国立公園は、1921(大正10)年頃から内務省衛生局保健課によって本格的な候補地の調査が開始されました。
1923(大正12)年には16箇所の候補地が挙げられ、後の瀬戸内海国立公園となる「小豆島・屋島」も選定されました。
瀬戸内海国立公園は、古くから名所旧跡として親しまれた小豆島・屋島から、多島海の風景価値が見いだされた備讃瀬戸へ対象区域が拡大されたことによって成立に至りました。
やがて指定区域は、1950年の第二次指定で、和歌山から大分までの陸域が拡大され、1956年の第三次指定で六甲山や国東半島も加えられ、海域も紀淡海峡や関門海峡も追加され、広大な国立公園へ発展していくことになります。
1911(明治44)年、瀬戸内海国立公園成立に大きな影響を及ぼした「瀬戸内海論」という本が刊行されました。
著者は、地元香川県出身のジャーナリスト・国会議員の小西和氏です。
1911年(明治44)年は、国会(第27回帝国議会)で日本で初めて国立公園に関する議論が行われた年です。
この時対象とされた景勝地は、日光と富士山でした。その他の対象地も当時は、日本アルプスなど山岳風景に関心が示されていました。
そうした風潮に対して、小西氏は批判的でありました。そして海の風景、特に多島海の風景の素晴らしさに着目、しかもその風景は外国人客からも絶賛されていることを紹介していきます。その流れは、次第に新しい風景発見の契機となり、展望台からの多島海パノラマ風景の価値が見いだされていくようになります。
小西和氏は、「朝日新聞の記者として日露戦争に従軍して満州に渡り、戦況記事を手掛け、帰国後新聞社から1年間の慰労休暇と2000円の慰労金を得、この休暇を利用して瀬戸内海に関する著作をものにするため、瀬戸内海の実地調査をし資料収集に努め」たそうです。
*(西田正憲著 瀬戸内海論 中公新書 1999年 P186)
これは、現在のsabbaticalですね。当時こういう先進的な制度があったことに驚かされます。
アメリカの大学などでは、教授が何年間か在職するとsabbatical・つまり長期休暇が与えられ、これを利用して
本を書いたりするそうです。
余談ながら、日本の企業でも僅かながらこの制度を採用しているところがあります。sabbaticalがもっと拡大すれば、企業人から斬新な情報・文化が発信され、日本社会はもっと豊かになるものと思われます。
さて、屋島の風景探索路に入ります。
これは、いかにも伝統的な国立公園の探索路ですね。道は直線にせず、敢えてカーブにして森の中を進むように造られています。
そして、森が尽きると突然展望が開けるように工夫されています。
名所旧跡の地・屋島から離れて、溶岩台地に由来する屋島そのものの眺望と、多島海の展望台としての価値に配慮されています。
東側には入江を隔てて切り立った峰が連なる五剣山(375m)が望まれました。
手前の砕石場は国立公園指定区域から外されています。五剣山の国立公園指定区域は、山頂など比較的狭い区域に設定されています。
道端には熊本から「くまモン」が「がんばるモン」として出張していました。
九州四国連帯の証かもしれません。
屋島は、形が整っており上空からもよく見えます。
手前の山、こちらは屋島ではありませんがゴルフ場も見えています。屋島カントリークラブです。
outが源氏コースでinが平家コースと呼ばれているそうです。
屋島は、琴電志度線の春日川駅~潟元駅間の春日川の橋梁からも遠望できます。