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 大隈通りのマルシンで頭を刈って貰っていた頃はまだ大隈通りを歩く理由も在りましたが、もう何年も御無沙汰しているうちにすっかり馴染みが無くなって仕舞いました。
 この日は大隈通りには行かず、観音寺横の東門から本キャン内に入ってみることにしました。
 観音寺を設計した石山修武氏は、先程のドラード和世陀を手掛けた梵寿綱氏と同じく理工学部建築科出身だそうです。
 東門から入ると視線の先に西門が見える程の狭いキャンパスにも拘らず、いつも何処かで工事をしている印象が残っています。わたしたちの学んだひんやりした3号館は建替えられて物凄く恰好良くなっていました。
 しかし、昔、研究室の在った4号館は村上春樹なんちゃらという奇天烈な建物に化けて、演博の外観を損なっていました。村上春樹なんちゃらのほかにも小室哲哉なんちゃらも何処かに在りましたから、そのうち、田中真紀子なんちゃらも出来るかも知れませんね。
 越路吹雪衣裳展は引き続き開催中。土曜日でしたので、OBがキャンパスを訪れたり、博物館を見学に訪れたりする人も少なからず目にしました。
 わたしたちが学生の頃は《講義中の逍遙》の銅像は在りませんでした。坪内博士記念演劇博物館が今井兼司先生の設計によりグローブ座を模して建築されたのは1928(昭和3)年のことでしたが、その頃の逍遥先生と牧野富太郎博士との交流を逍遥先生がエッセイに遺していたことを取り扱った岐阜新聞の記事をこのブログで採り上げたことが在りましたね。

 因みに台座には秋艸道人の名が刻んで在りましたが、會津八一の人柄が今一つ好きになれないものですから、フレームから外して仕舞いました。

 更に、後から確認したところ、つい先日の6月14日、今年の逍遥祭では《らんまん》の脚本家長田育恵さんを講師を招いた講演と対談が行われたそうですビックリマーク 定員200名ですから外れても致し方在りませんが、聴いてみたかったですね~。

 逍遥先生の銅像が立っているところには、昔、灰皿が置いて在りましたが、今は喫煙室以外では喫煙不可。しかし、西門に向って歩いて行くと、昔懐かしいものがまだ残っていることに気が付きました。これ上矢印、わたしが入学した頃から在りましたよ。

 わたしが学生の頃、まだ17号館は無く、生協は8号館に在りましたっけ。8号館横の階段に向う前に暫し本キャン内をぶらり。

 立てカンはすっかり減っていましたが、こういう掲示物が無ければ早稲田では無いと言っても過言では在りません。

 8号館横の階段を上がると、15号館・16号館は昔の侭の佇まいを残していました。

 西門を出ると、目に飛び込んで来たのは三品食堂。おぉ、閉店していなかったのですね。

 コロナ禍で閉店したワセメシも少なくない中、三品が生き延びていたのは喜ばしい限りです。

 西門通りでは昔学帽を作った記憶が在りますが、今や早稲田の学帽を作る店は1軒も無いそうです。

 

 西門通りからグランド坂通りに下りて生協食堂を覗いた後、早稲田通りに向い掛けましたが、折角久し振りに此処迄来たので、甘泉園を覗いてみることにしました。

 

【6月30日の追記】ワセメシに余り縁のないわたしですが、久々に早稲田を訪れた日の夜に悲報を知りました・・・・・・。言葉も在りません。

 南門通りのメルシーが遂に、突然の閉店を迎えたのだそうです。