昨夜、世界的バイオリニストの千住真理子さんを囲んでのお食事会に参加する、という幸運に恵まれました。

しかも、私の席は千住さんのお隣。


千住さんのお人柄は、テレビでのお姿やご著書「聞いて、ヴァイオリンの詩」(時事通信社)から、優しい方であろうことは予想していましたが、実際の千住さんは、想像よりもさらにさらに素敵な方でした。



緊張して上手にしゃべれない私の拙い話を、大きくうなずきながら一生懸命に聞いてくださったり、質問にもていねいに答えてくださったり、時には声を立てて笑ったりと、たいへん気さくで明るく、サービス精神にあふれた方です。


が、それは、想像を絶するほどの困難を乗り越えて来た方だからこそ持ちうる心の広さと柔らかさであることも実感しました。


一本筋の通った、凛としたとした清らかさに裏打ちされている柔らかさです。


清冽でありながら、どこまでも温かいというか…。




6年生の予習シリーズにも千住さんの文章が使われており、千住さんの考えるプロとしての美学、バイオリニストとしての自分の存在意義、人の生きる意味、という深いテーマについて、小学生にもわかる表現で綴られています。


私はその授業をするのが大好きで、子どもたちとどんなやりとりをするかや、子どもたちにとって、初めての「哲学」の世界への導入になっていることなどを千住さんにお伝えしたかったので、思い切ってお話しました。


「そうなんですか。とてもうれしいです」と言っていただき、感激してしまいました。


さて、いろんな興味深いお話を伺ったのですが、最も印象的だったのは、演奏中の心の状態についてです。


「うまく弾いてやろう、すごいと言われるような演奏をしてやろうというような気持ちがあると集中できなくなるので、真空の状態でステージに上がります。」


「本当に心をこめて弾くというのはとても疲れることなんですが、それをしなければ聴いている方々の心に、魂のこもった音はとどけられないんですね」


なるほど…と思いつつ、伺ってみたくて質問しました。


「素人が心をこめて演奏しようとすると、どうしても自分だけが酔ってしまい、独りよがりになってしまいます。真空であることと、心をこめることがどうやってお気持ちの中で両立しているのですか?」


「ああ、それはですね。自分の意識が、弾いている自分のすぐ近くにあったらだめなんです。客席の一番後ろに自分がいて、その自分が演奏を客観的に聴いている状態が、集中できている状態なんです」


「フルトベングラー(確か、そうおっしゃっていたと思います)がそんなことを言っていたので、私もそれを最初に読んだときには、そんなことってできるのかしらと思いました。でも、訓練でできるようになるんですよ」


「オリンピックのアーチェリーの選手の方が、的を狙うのだけれど、的の向こうに意識を持っていく、とおっしゃっていたのですが、あ、同じ感覚だ、と思ったんです。」

「狙うのだけれど、そこだけを狙いすぎてはいけない。上手く弾かなくてはいけないのだけれど、上手く弾こうとばかり考えてはいけないんですね。」


このお話には一同、圧倒されて、嘆息をもらすばかりでした。



狙いながらもそのもっと先を、もっと奥を見る…


私のような俗人、凡人にはとても真似はできませんが、でも、このようなことは他の仕事にもあてはまることかもしれない、と後から思いました。


自分にあてはめていえば、子どもたちと本当に意味での心の交歓をするのなら、目の前の子どもたちを見つめながらも、その奥、その先に視点をもっていくことも大事なのではないか……。

千住さんのニュアンスとはちょっとちがうかもしれませんが、そんなことを帰りの電車で考えていました。


さて、まもなくお開きになろうかという時に、図々しくも記念写真の撮影と、サインをお願いしましたが、快く引き受けてくださいました。


お顔の写真はここにアップすることはできませんが、サインをご披露いたします。


中学受験・ダメ母プロ講師のひとりごと



二十数年前、横浜市緑区(当時)での教員時代、校長から「南雲さん、あなた音楽好きでしょう? 区が主催する千住真理子さんのリサイタル、行ってらっしゃい」とチケットを譲っていただいて出かけたことを思い出します。


ちょうど、小学校での仕事が自分には合わないのではないかと悩んでいた頃でした。


演奏を聴いて、頑張る力をいただいたのは言うまでもありません。


今、こうしてまた千住さんにパワーをいただけた、ということは「しっかりがんばりなさい」という神様の計らいかな?


そして、「温かい気持ちを忘れずに」というメッセージだったかもしれません。


いろんなことに感謝したい気持ちになって帰途についたのでした。