無記名の誹謗中傷は武士道に反する。

 

お互いに名を名乗ってから戦うのが武士道だ。

無記名は闇討ちだろう。

犯罪だ。

 

統計では、一時の衝動・うっぷん晴らし 等が多い。

実名だったら投稿しなかった と言っている。

 

SNSの実名公表を義務化したらどうか!

AIをどう定義するかで話は変わってくるが、

「アート(抽象的なモノ)をサイエンス/インテリジェンス(具体的なモノ)で表現する」

と定義すると、

「日本人は昔から生活の中で自然と実践してきた」

と言える。

 

日々の生活の中で、いかに多くの建築用語が使われているか。

 

日々の生活(アート)を暗黙知、表現(サイエンス)を形式知 と置き換えるとよくわかる。

 

見切り、たたき台、お墨付き、墨を塗る、ツーカー(の仲)、段取り、手はず、しわ寄せ、ピンキリ、敷居が高い、お膳立て、土壇場、束の間(つかのま)、突貫(工事)、目途(めど)、カスガイ(鎹)、ろくでなし、たたき上げ、コケラオトシ(杮落し)、取り合い(とりあい)、仕切り(しきり)、土台(どだい)、大黒柱(だいこくばしら)、敷居(しきい)、段違い(だんちがい)

建て前(たてまえ)、破綻(はたん)、看板(かんばん)、口利き(くちきき)、いの一番(いのいちばん)、几帳面(きちょうめん)、羽目を外す(はめをはずす)、うだつが上がる、チョンボ 等々

 

抽象的なことを具体的な表現に置き換えている。

 

AI 恐るるに足らず。

 

われら日本人は、AIを使いこなしてきた。

山仲間であり主治医である友人が旅だった。

残した言葉は、「死者に煩わされるべからず」であり、

葬儀はご家族で済まされた。

 

山仲間としては、生前の山行の写真類をシェアーし偲ぶことになる。

 

生者は死者の為に煩わさるべからず(生者は死者のために煩わされるべからず)」は、

西洋画家の梅原龍三郎の遺言のようだ。

 

友人・家族を愛する人は、全てこうあるべきだろう。

 

対極にいるバカ者はトランプに代表される。

 

 

生前には、

 銅像を建てる。

 勲章を欲しがる。

トランプは間違いなくド派手な葬式を遺言として残す。

 

GMOのセキュリティが破られデータが搾取された。

先ず言わなければならないのは、GMOはIT会社だ。

本業でこんなことが起こったことを恥じなければならない。

 

もう一つは、進出した分野がカルチャー不一致だろう。

 

GMOの得意分野は所謂インターネット・情報系で生きている会社だ。

 

勘定・業務分野へ手を出したことだ。

求められる堅牢性が違う。

カルチャーが違う。

 

消費税0%が考慮されていないレジシステムが世の中にある不可思議さをブログに記載したことがあるが、

業務処理を扱ったことがない会社が作ったのであれば、在りうるだろう。

改正皇室典範が、今日から施行と新聞紙面に載っている。

 

なんとなく ふわ~っと決まってしまった改正皇室典範。

主権者たる国民の理解も得ず決まった印象だ。

当の天皇家も なんとなく反対の意向があるような記事もみた。

 

これでいいのか!

高市早苗(日本会議の意向)の独断で各種決まっていいのか?

 

米国の民主主義が崩壊している印象だが、

日本の民主主義も静かに崩壊していないか?

米国はトランプがギャーギャー騒ぐから内容はともかく、やろうとしていることが分かる。

日本はコソコソやっているからある日突然(今日の新聞記事のように)世の中が変わる。

 

ソモソモ首相が国会答弁を避けSNSで自分の意見を一方通行で発信して物事を決めるのはいかがなものか。

これは民主主義とは程遠い。

 

ある日突然、文化の日が明治の日になりそうだ。

今年ってことはないだろうが・・・ と思っている時間はあるのか。

PHPの脆弱性が指摘されているが、育ってきた経緯を見れば明らかだ。

 

一人のプログラマーが自分のHPのアクセス履歴を管理するために作成した

「Personal Home Page Tools」が起源。

 

その後オープンソースコミュニティである The PHP Group によって開発・維持されてきた。

利便性を追求し、リスク管理は二の次になる。

 

早い! 安い! 上手い!

 

日本の大企業が開発する場合、

石橋を叩いて叩いて壊れる手前まで脆弱性のチェックをする。 

従って、開発コストは数倍になるため製品価格もそれなりに高くなる。

 

社内の誰かがその利便性に注目し使い始め広まっていく。

使い勝手だけに注目しドンドン拡がっていく。

 

その結果が、現在のPHPの立ち位置だ。

安いものは安いなりの理由がある。

PHPに限って言えば ただより高いものはない!

 

租税特別措置の見直し、補助金の削減・見直し としている。

現状、調整が難航している。

 

担当者から簡単に出てくるわけがない。

 

簗元農水大臣の「予算削減」発言は、

国の予算削減を、県の予算を増額し帳尻を合わせている。

 

消費税減税を賄う予算として、何らかの予算が削減され、

削減された予算の帳尻を合わせるため赤字国債が発行される気がしてならない、

名目上、赤字国債は帳尻合わせに使われた他の科目の為に発行される。

 

まさか、これで国民が納得すると思ってはいないだろうな。

川越祭りのハイライトの山車の「曳っかわせ」にばかり目がいっていたため、

神幸祭は無視していたが、

ナカナカいいものだと勧められ行ってみた。

 

確かにナカナカいいものだった。

が、一点気になったと言えば「馬」だ。

二頭の馬が神主を乗せて行列の中心にいるが、

明らかにいらついている。

大勢の群衆、アスファルトの道。

 

普段は乗馬クラブ辺りで仕事をしているのだろうが、

祭りの中心に入った状態では落ち着かない。

 

前足でアスファルトを搔いている。

馬を触ったことがない私でも、イラついている様子が分かる。

 

事故が起こる前に動物愛護の観点から対策を講じた方がよさそうな気がする。

印西市のデータセンター建設で揉めていることはご存じだろう。

ところが、この印西市はデータセンターを誘致して発展する計画だった。

60年前の話だ。

 

青山通りがコンピューター通りと言われ、

都市銀行をはじめとしたデータセンターが軒を連ねていた。

 

大きな違いは当時のデータセンターは多くのホワイトカラーが働いていた。

現在のデータセンターはサーバーが自動運転されている工場だ。

 

街づくりは人のスピードで進められる。

コンピューターシステムは、ムーアの法則で発展する。

このスピードの違いによるタイムラグが印西市の問題を引き起こしている。

 

未来の街の設計図を間違えなかったのは手塚治虫だけだろう。

 

――紀州漁師の足跡、そして受け継がれる『まっち』の魂――

 

はじめに

千葉県勝浦市に位置する「鵜原(うばら)」は、太平洋に大きく突き出た風光明媚なリアス式海岸と、黒潮の恩恵を受ける豊かな海に抱かれた歴史ある港町である。
この地は、江戸時代初期に最先端の漁業技術をもって海を渡ってきた紀州漁師の定住、徳川四天王・本多忠勝による大多喜藩の統治、そして大正期に名付けられた「理想郷」としての近代の変遷など、重層的でダイナミックな歴史を持っている。
本資料は、鵜原という町の歴史的成り立ち、紀州漁師との深い繋がり、伝統的な祭礼(まっち)とその独特な掛け声、そして「理想郷」としての位置づけについて、後世に書き残すべき地元の確かな記録として網羅・集約したものである。


第一章:鵜原の地名と歴史的成り立ち

1. 厳しい大自然とリアス式海岸の地形

鵜原の地形的な最大の特徴は、太平洋の荒波によって削り出された複雑なリアス式海岸である。泥岩や砂岩の岩肌が鋭く突き出た明神岬一帯は、天然の良港を形作る一方で、陸路の移動を拒む険しい地形でもあった。かつて隣の集落へ移動するためには、険しい峠を越えるか、素掘りのトンネルを潜り抜ける必要があり、この地理的孤立性が、各集落(集落ごとのコミュニティ)に独自の強固な結束力と独自の文化を育む土壌となった。

2. 大多喜藩主・本多忠勝による統治と経済基盤の整備

天正18年(1590年)、徳川四天王の一人である本多忠勝が大多喜城主(10万石)としてこの地に着任すると、現在の勝浦・鵜原を含む夷隅地域一帯は大多喜藩の支配下となった。
忠勝は領内の経済振興と地域活性化のため、天正19年(1591年)に「勝浦朝市」を開設した。この朝市は、農産物だけでなく、鵜原をはじめとする沿岸の漁師たちが水揚げした新鮮な海産物を物々交換・流通させるための極めて重要な経済拠点となった。統治者による市場経済の整備が、沿岸部における漁民の定住と経済的安定を大きく後押しすることとなったのである。


第二章:黒潮の海と紀州漁師の定住

1. 房総半島と紀伊半島を結ぶ「黒潮のハイウェイ」

房総半島の南端から外房へと流れる世界最大級の暖流「黒潮(日本海流)」は、紀伊半島(紀州)から北上する海の道でもあった。江戸時代初期の寛永年間(1624〜1643年)頃、房総沖で鰯(いわし)の大漁が続いているという報せが関西方面に伝わると、優れた航海術と先進的な漁業技術(地引網や八艘張り網など)を持つ紀州の漁師たちが、一獲千金を夢見て命がけで太平洋を北上してきた。

2. 先進漁法の伝授と土着、そして文化の融合

当初は季節ごとの出稼ぎ(出魚)であった紀州漁師たちの一部は、波静かで天然の良港となる鵜原や勝浦の沿岸に深く惹かれ、そのままこの地に土着・定住するようになった。彼らは地元の漁民に、それまで房総にはなかった大規模で効率的な「紀州流の漁法」を惜しみなく伝授した。これにより、鵜原周辺の漁業生産力は爆発的に向上し、一躍豊かな漁師町へと変貌を遂げた。
現在もこの地域には、和歌山の熊野信仰に由来する神社や、尾張・津島神社などから神様を勧請した歴史、そして関西地方に非常に多い苗字が集落に色濃く残っているなど、黒潮を渡ってきた海の男たちの伝統が今も街の随所に息づいている。


第三章:鵜原の伝統祭礼(八坂神社の例祭)

1. 千葉県記録選択無形民俗文化財「鵜原の大名行列」

毎年7月の第4土曜日(本祭り)に開催される八坂神社の例祭、地元で「まっち」と呼ばれる夏の伝統行事は、漁師町としての荒々しさと、歴史的な大名文化が完全に融合した極めてユニークな祭礼である。
その中核をなすのが、江戸時代の武士の行列を忠実に再現した「鵜原の大名行列」である。この行列の起源は、大多喜藩主・本多忠朝(本多忠勝の次男)が重い病に伏せった際、鵜原出身の奥女中の勧めで八坂神社(当時は牛頭天王宮)に祈願したところ、病気がみるみる全快したという伝承に由来する。大感激した忠朝公が、身代わり祈願の御礼として、大多喜城内にあった本物の武具や式具(槍、弓、鉄砲、挾箱など)を一式丸ごと鵜原に寄進したと伝えられている。
現在も古式ゆかしい衣装を身にまとった住民らが、挾箱(はさみばこ)や大鳥毛(おおとりげ)を掲げ、「よい、よい、よいやまかせぇ」という格式高い掛け声と独特のステップを踏みながら街を練り歩く。

2. 家と伝統を繋ぐ厳格な掟

鵜原の祭りには、現代のイベントとは一線を画す厳格な伝統の規律がある。かつて、大名行列への参加は「長男(跡継ぎ)」だけに許された絶対的な特権であり、家を継ぐ者としての責任と誇りを地域に示す神聖な場であった。
また、大名行列の格式を守るため、行列の目の前を「横切る」行為は現在でも厳しく禁止されており、見学の際は強い敬意が求められる。

3. 「お浜おり」の神事と海の白い鳥居

行列の後ろからは、海の男たちに担がれた激しい神輿が追いかけます。やがて神輿は「日本の渚百選」にも選ばれている鵜原海岸へと入り、浅瀬に立つ純白の鳥居(通称:紀州根の一ノ鳥居)へと向かう。
この「紀州根(きしゅうね)」という場所は、かつて紀州から移住してきた漁師たちが船を引っ張り上げ、生活の拠点とした岩礁地帯であると言い伝えられている。男たちは太ももや腰まで海水に浸かりながら、荒波の中で神輿を激しく揉み上げ、豊漁と海上安全を本気で祈願する。


第四章:神輿渡御の木遣りと独特な掛け声

1. 岡(陸路)の「静」:波のうねりを表す木遣り唄

鵜原の神輿渡御は、陸路と海で「静と動」の対比が鮮やかに描き出される。
陸の上を進むとき、神輿は威勢よく走るのではなく、木遣り師(音頭取り)が朗々と唄い上げる厳かな「木遣り唄」に合わせてゆったりと進む。担ぎ手たちはその情緒あるリズムに合わせ、神輿を左右にゆらりゆらりと大きく揺らす。この独特な揺らし方は、「寄せては返す太平洋の波のうねり」を表現していると言い伝えられており、海の恵みへの深い感謝と敬意が込められている。

2. 浜(海路)・宮入りの「動」:伝統の咆哮「でぇりんでぇと」

神輿が海に入るお浜おりの瞬間、および夜更けの八坂神社への宮入りの瞬間、祭りのボルテージは最高潮に達し、掛け声は荒々しい咆哮へと一変する。
担ぎ手たちが腹の底から叫ぶ掛け声は、「でぇりんでぇと! でぇりんでぇと!」という外房の漁師町独特の非常に力強いものである(地域の響きによって「でーんでーんど」などと聞こえることもあります)。この地鳴りのような掛け声とともに、神輿は上下に激しく揉み立てられ、天高く放り投げられる。
夜の宮入りでは、激しく揉み合った神輿が拝殿に入ると、その勢いのまま神輿のてっぺんが本殿の天井をドカンと突き破るのが毎年の恒例であり、天井が壊れて初めて「今年も最高のまっちだった」と幕を閉じるという、漁師町ならではの豪快すぎるエピソードも残されている。

3. 勝浦市内・他地区の掛け声との違い

秋に開催される合同祭「勝浦大漁まつり」では各地区の神輿が一堂に会するが、険しいリアス式海岸によって各集落が独立して文化を守ってきたため、地区ごとに掛け声や担ぎ方が全く異なる。

  • 墨名(とな)・新官(しんが)地区: 掛け声は「さぁーせ、さぁーせ」。神輿を頭上高くに一斉に突き上げる(差し上げる)華やかなスタイルである。
  • 川津(かわづ)地区: 掛け声は「ちょーさい、ちょーさい」。神輿を肩よりも低い腰の位置で激しく上下に揺さぶる「腰揉み」と呼ばれる荒々しい担ぎ方である。
    これらに対し、独自の木遣り唄と「でぇりんでぇと」の濁音を響かせる鵜原のスタイルは、最も重厚で伝統的な海の男たちの気骨を感じさせるものとして知られている。

第五章:「理想郷」の誕生と近代の変遷

1. 大正期の別荘地計画と「理想郷」の由来

大正初期から末期にかけて、鵜原の風光明媚な明神岬一帯の美しさに目をつけた開発業者(武山寛等)により、この地を一大高級別荘地として開発する壮大なプロジェクトが立ち上がった。その際、この世のユートピア、楽園をイメージして付けられたキャッチコピーこそが「理想郷(鵜原理想郷)」という地名の由来である。
大正13年には外房線(当時の房総線)の鵜原駅が誘致されるなど開発が進んだが、関東大震災やその後の世界恐慌といった激動の社会情勢により、大規模な別荘地開発自体は幻に終わった。しかし、その結果として、手つかずの荒々しくも美しい大自然と「理想郷」という美名だけが、奇跡的に後世へと残されることになったのである。

2. 文人墨客が愛した芸術の地

「理想郷」という美しい名と、ダイナミックなリアス式海岸の絶景は、近代以降、多くの芸術家や文人たちを魅了し、彼らのインスピレーションの源となった。

  • 与謝野晶子: 昭和11年(1936年)に当地に滞在し、鵜原の自然や海岸線の美しさを題材に76首もの歌を詠んだ。現在のハイキングコースの道標には、彼女の歌が刻まれている。
  • 三島由紀夫: 三島は20歳を迎えていた1945年終戦前後の時期に鵜原に滞在(または疎開・避暑)し、その緊迫した戦争の気配や海岸の風景の中で短編小説『岬にての物語』(作中での地名は「鷺浦」)を執筆していた。物々しい軍事機密や特攻の気配が漂う実際の海の光景は、のちに彼の文学や死生観にも深い影を落とすことになった。

結びにかえて

「板子一枚下は地獄」と言われる過酷な太平洋の海へ漕ぎ出し、自然の脅威に立ち向かいながら生きてきた鵜原の漁師たち。彼らの「度胸」と「フロンティア精神」、そして大多喜藩の歴史的格式が交差して生まれたのが、鵜原の成り立ちであり、今も響く「でぇりんでぇと」の掛け声である。
この地が「理想郷」と呼ばれ、多くの文人に愛されたのは、ただ景色が美しかったからだけではない。過酷な海と向き合う人間たちの強い意志と歴史が、その景観に唯一無二の命の輝き(スピリット)を与えていたからに他ならない。私たちが誇るべき鵜原の歴史と伝統は、今も変わらずこの美しい海岸線と、人々の心の中に深く息づいている。