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日常生活に慣れてくると、父は銀鈴会というところに行くことになる。

銀鈴会とは、父と同じように声を失ったひとが、食道発声という発声法で声を出すために訓練を行う場所だ。

父はこのときすでに定年退職をしていたので、仕事をしていなかった。だから、あえて食道発声などしなくても、筆談やジェスチャー、さらには電気喉頭と呼ばれるマイクを使えば、日常会話をするには十分だった。そんな父がなぜ銀鈴会に通い、食道発声をしようとしたのか。それは、弟大介の結婚式で、【新郎の父の挨拶】をするためだった。もちろん、食道発声はすぐにしゃべることができるほど簡単ではない。というか、いくら練習をしてもしゃべることができない人さえいるほどだ。でも、父はこの挨拶をしたかった。例え全文読めなくても、一言「おめでとう」と言ってやりたい。看護師の飯島さんがオレにそう教えてくれた。オレもそんな父の想いを知り、一度だけ銀鈴会に付き添いで行ったことがある。

そこには先生が3人ほどいて、その先生はみな父とおなじ喉頭がんで声帯を全摘したひとだった。参加者のみなさんも、もちろん声帯を全摘した方々だ。そして、オレはそこで驚くことになる。先生方は、まるで声帯を使って声を出しているかのように普通に声を出してしゃべることができるのだ。ゲップとおなじ要領で食道を震わせ声を出しているのだというが、これにはすごく感動した。
オレも見よう見まねでやってみたのだが、本当に難しい。どこをどう震わせていいのかがまったくわからない。そんなオレを横目に、父はゲップの要領で「あ、い、う、え、お」と繰り返し発声練習をする。きっと、家でこっそり練習していたのだろう。父は、とても上手にやってみせた。

「国分さんうまいねえ!」

それは先生に褒められるほどだった。父は照れくさそうに笑い、ひたすら「あいうえお」から一生懸命に練習を繰り返していた。そして、講習が終わり、駅に向かって歩いているときだった。父がポツリとこう言った。

「オレもあんなふうにしゃべれるようになるのかな?」

オレは足を止め、父に言った。

「なるよ絶対。新郎の父のあいさつ、バシっと決めてやろうぜ」

父はいつものように親指を立てて答えた。


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こうして父は、銀鈴会に通いながら前向きに日々を過ごしていた。

だが、退院以来、父の行動範囲はずいぶんと狭まっていた。それまでは、よく母と買い物に行ったりドライブに行ったりしていたのだが、声を失ってからは外出先で人と会うのをなんとなく避けるようになっていた。喉頭全摘出手術をしたひとは、こうなるケースが多いと銀鈴会の会長さんも仰っていた。食道発声で完璧な会話ができる会長さんでさえ、今でも昔の友達などには会いたくないという。

そんなこともあって、銀鈴会に行くとき以外は家にいることが多くなった父に、退院祝いとして再び家族旅行に行くことを提案した。もちろん父も喜んで快諾してくれた。

そして訪れたのは、前回と同じく父が大好きな温泉街 箱根。今回はお手頃に行ける旅館にした。とはいえ、ここは日本でも有名な温泉街だ。お風呂はやっぱり最高だ。父は永久気管孔が開いているため、今までみたいに湯船に肩まで浸かれなかったが、オレや弟が足を伸ばし、その足の上に父は座ったりして高さを調節していた。
今考えると、声が出なくなってから、オレと父の距離は自分でも驚くくらい近くなっていたような気がする。例えば、今までは実家に帰るとただいまとおかえりということばのやりとりだけだったオレと父だったが、声が出なくなってからは、オレがただいまと言うと、父は笑顔でハイタッチを求めてくるようになった。いってきますも、おやすみも、ぜんぶハイタッチ。その距離は、今までよりもずっと近くて、なんだか照れくさかったけど、なんだかとっても嬉しかった。もちろんこの旅行でも、父とオレたち家族は何度となくハイタッチをした。

こうして、父がガンになってから2回目となった家族旅行も、家族で食事をしながらたわいもない話をし、いつもと変わらぬなんてことのないことに幸せを感じながら、家族みんなで楽しむことができた。

もちろん、この旅行で写った家族写真も、我が家のリビングのギャラリーに飾られた。

2016年9月のことだった。


つづく