「靴磨きのおじさん」 


まちがったことが、平気な顔してまかり通る今の世の中

たまに、無性にうんざりすることがある。


権力に怯える大人たち、心にもない愛想笑いでごまかす大人たち

くだらない権力が、なんでもまかり通る平成なんちゃって時代。


はっきり言って、ボクはあきらめていた。

就職活動なんか形ばっかりで、希望とかそういう明るいもの、なにひとつ持てずにいた。


そんな話を、ボクは今ボクの靴を磨いてくれている靴磨きのおじさんに話そうとしている。


サラリーマンの靴を、毎日磨いているおじさんに。


ボクにはこんな仕事はできない。いや、正確には、やりたくない、だった。


なんか、負けてるような気がするから。

サラリーマンは、偉そうにまるで自分が殿様にでもなったみたいに、気持ち良さそうに優越感に浸ってて、靴磨きのおじさんは、そんなサラリーマンの靴を黙ってただ磨いてる。


そんな関係が、なんかすごく嫌だった。

上から見下ろすサラリーマン、上から見下ろされる靴磨きのおじさん


おじさんは、なにを考えているんだろう。だから、磨いてもらおうと思った。このおじさんと、話しがしたくなったから。

ボクは、噛んでたガムを呑み込んだ。


「あのっ」

おじさんは、黙って顔を上げた。

「あの、なんで靴磨きになろうと思ったんですか?」

おじさんの手は一瞬止まった。ボクはあわてて謝った。

「あ、すいません」

そんなボクに、おじさんはゆっくりとまた手を動かしながら、こう言った。

「どうしてかあ。うーん、靴しか磨けないから。ですかねぇ」

靴しか磨けないから。そう言うと、おじさんは、ボクの汚い靴を磨きながら、さらにこう言った。


「就職活動、ですか?」

リクルートスーツが浮いていたのかもしれない。ボクはちょっと恥ずかしくなった。

「え、あ、はい」

そして、おじさんはボクの靴のつま先をこすりながら言った。

「世の中くだらない、そんな感じかな?」

「え?」

ドキッとした。

「いや、靴がね、そう言ってるみたいで」

見透かされたようでドキッとした。ボクはちょっとことばにつまってこう言った。

「…なんか、こう納得いかないことばっかりで」

おじさんの手が一瞬止まったように見えた。

「そうですね、ホント」

「なんていうか、そんな社会ってなんなのかなって」

おじさんは、汚れた布にクリームをつけながらこう言った。


「例えば」

「え?」

「あ、例えばです」

「あ、はい」

「右の靴を左足にはいて、左の靴を右足にはいたとしましょうか」

なんのことかよくわからなかったけど、とりあえずボクは返事をした。

「え、はい」

「ある人は、歩く前にはきちがえたことに気づき、ある人は、歩いても歩いてもそれに気がつかない。さらにある人は、それに気づいても、気づかないフリをする。じゃああなたなら、どうしますか?」

おじさんは、こっちを見ることなくボクに聞いた。

「え…クイズですか?」

おじさんはなにも言わなかったので、すぐにクイズじゃないことがわかった。

「あ、履きなおします」

「うん。アナタはきっとそう答えると思いました」

「…はい」

「でもね、世の中には、履きなおさない人のほうが多かったりするんですよね」

「え、どうしてですか?」

「どうしてでしょうね。それが、社会ってとこなのかもしれませんね。」

「…」

「社会には、履き違えてることに気がついていても、目をつむって見ようとしない人、履き違えていることを正当化している人、そういう人がたくさんいるんです」

おじさんが言おうとしていることが、ようやくわかった。

「…ボクは、その社会でどうしたらいいんですか…」

「うーん、どうしたらいいんでしょうね。私は靴磨きですからねえ」


結局、社会なんてそんなとこだ。そんなとこで、ボクもそういう大人になっていくんだ。そう思った。

「ひとつ言えることは、」

おじさんが、ボクのそんな気持ちに気づいたかのようなタイミングで、ゆっくりとまた話しだした。

「靴をはきちがえると、足はゆがみ、やがて道までもふみまちがえてしまうかもしれないってことですかね」

「道も、ですか?」

「ええ。やっぱりまっすぐ歩けませんからね。だからどんなときも、右足は右の靴に、左足は左の靴に。どんなときも、履き違えたらその場で履きなおす」

「…履きなおす」

「ええ。そうやって信じた道をただまっすぐ歩くんです。いつもピカピカの靴でね。さあお待ちどうさまでした」


足元を見ると、さっきまで汚れていたボクの靴は、いつのまにかピカピカになっていた。ボクは思った。そのピカピカは、ボクが忘れていた、ボクが社会に抱いていた、そして自分に抱いていた「希望」のピカピカなんだと。ボクは、その靴のピカピカした感じを見ながら、おじさんに聞いた。

「あの」

「はい?」

「また来てもいいですか?」

おじさんは、ヒゲゴジラみたいな顔をくしゃっとさせこう言った。


「いつでもどうぞ。わたしの仕事は、靴磨きですから」


あれから一年が過ぎていた。

社会人一年目の春がやってきた。


ボクは、いつもなにかのせいにしてきたのかもしれない。できない理由ばかりならべていたのかもしれない。はじめる前から、きっと言い訳ばかりして逃げていたんだ。

あの日おじさんは、ボクのことをせめなかった。


今ボクは、歩いている。まっすぐ歩いている。


もちろん、誰よりもピカピカな靴で。


もうボクは、逃げたりなんかない。

待ってろ、社会!



おしまい