気がかりな記事はその38に達した。

『立正安国論』のつづきは、本論の肝要部分、浅井先生の御講義である。

 

浅井先生講義

 この一段は本論の肝要である。すなわち大聖人は、もし謗法を退治せずんば自界叛逆・他国侵逼の二難必ず来ることを、厳然とここに断言し給うたのである。云く

「先難是れ明かなり、後災何ぞ疑わん。若し残る所の難、悪法の科(とが)に依って並び起り競い来らば、其の時何(いか)んが為せんや」と。

 

 御本仏にあらずして、どうしてこのような御断言ができようか。まさしくこの自他の二難の御予言こそ、末法下種の本仏開顕の序と拝すべきである。

 

 この御文につき日寛上人は

「法然の謗法に由るゆえに、種々の災難いま世上盛んなり。もし彼の謗法を退治せずんば、自他の叛逆来らんこと治定(じじょう)なり。ゆえに此の論を勘(かんが)え、以てこれを奏するなり。ゆえに重ねて四経の文を牒釈(ちょうしゃく)するなり。これ此の論の肝要なり」

と仰せられている。これは一往附文に約しての御指南である。もし元意(がんい)に約して本文を拝せば、先難たる正嘉の大地震も、後災たる自他の二難も、実に末法下種の御本仏・日蓮大聖人に背き奉る失(とが)によって起きたのである。

 すなわち久遠元初の自受用身、末法に出現して三大秘法を以て一切衆生を救わんとするに、悪王・悪比丘等こぞって軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して迫害を加えるならば、諸天善神はまず天変地夭を以てこの謗法を諫める。しかるに国主等この諫めを用いずにさらに迫害を強めるならば、諸天は隣国の賢王をしてこの国を責めしむるのである。

 

●賢王とは?

第二次世界大戦時であれば、アメリカ合衆国が賢王となるであろう。その後、その力によって、日本の平和は守られた。

現在であればどうか。すでに責めしむるは合衆国ではない。あるとすれば西側にある中国かロシアということになろう。

創価学会がこのまま改心せず、師敵対を続けるならば、迫害はますます強まると諸天善神は思うであろう。

諸天は諸国の賢王をしてこの国を責めしむるのである。まことにその通りになっているではないか。御在世は、謗法念仏。現在世は、創価学会の大謗法である。●

 

 このことを撰時抄には

「第五の五百歳の時、悪鬼の身に入る大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入る大僧等、時の王臣・万民等を語(かたら)いて、悪口罵詈(あっくめり)・杖木瓦礫(じょうもくがりゃく)・流罪死罪に行はん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛なるべし。国主等其のいさめを用いずば、隣国にをほせつけて彼々(かれがれ)の国々の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし」

 

また法蓮抄に云く

「予、不肖の身なれども、法華経を弘通する行者を、王臣人民之を怨(あだ)む間、法華経の座にて守護せんと誓いをなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出して此の国をおどす。いかに諫むれども用いざれば、結句は人の身に入って自界叛逆せしめ、他国より責むべし」と。

 

 ●創価学会の師敵対、背信により、地神いかりをなして身を振るい、天神身より光を出して此の国をおどす。いかに諫むれども用いざれば、結句は人の身に入って自界叛逆せしめ、自民党への国民の見放しと自民党と公明党の確執などが人の身に入って自界叛逆せしめる現証である。その上、都知事選で政権交代が巻き起こらんとし、何と50人以上の都知事候補が出馬するという前代未聞。自界叛逆難の序。日本は他国より責むべしも時間の問題ではなかろうかというところ。小生も『鬼滅』に憑りつかれ、謗法に触れる有様。どうすることもできん誘惑か。流れを止めることはできんのか。

 

前代未聞の大闘諍を揶揄した日本の人気アニメーション作品『機動戦士ガンダム』には有名なセリフがある。一年戦争、最終決戦場ジオン公国の要塞ア・バオア・クーにおいて、白兵戦となるジオン軍対連邦軍、地球連邦軍アムロ・レイとジオン公国軍のシャア・アズナブルもまた激闘を強いられた。

 シャア・アズナブルが放った言葉にはこのようなフレーズがある。

「人は流れに乗ればいい。だから私は君(アムロ)を殺す!」

時代の流れに身を任せて流されっぱなしでよいのだというシャアに対して、ニュータイプのアムロ・レイはその時代の流れを止めようとする抵抗軍(人)である。

 

 現在、酷が続くが、過酷な酷暑、日本列島、静岡県も前代未聞の気温上昇となっている模様。

誰にも止められん異常気象。誰にも止められん兵乱、前代未聞の大闘諍。

小生は扉を閉めてその禍を止めようとする抵抗勢力である。

果たして、世界は、日本は、どれほどの者が賛同するのであろうかといったところである●

 

 御在世の天変地夭および蒙古の責めが、ひとえに日蓮大聖人を境(きょう)として起きたことは明々白々。まさに大聖人が久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏なればこそ、一国にこのような大現証が起きるのである。

 

 ●ゆえに、第二次世界大戦は、国家神道、神を立てて、大敗北を喫する。仏を立てねば国が滅ぶのである。神は所従、仏は主である。これを違えれば国亡ぶのである。諸天の力用侮ることなかれ、とてつもない怒りが巻き起こるのだ。●

 

 ここに大聖人は正嘉の大地震を御覧になり、後に起るべき自他の二難を、本論に厳然と予言し給うたのである。さればこの御予言こそ御本仏開顕の序である。

 

 ゆえに蒙古襲来後に著された聖人知三世事(しょうにんちさんぜのこと)には

「自他の返逆(ほんぎゃく)・侵逼之を以て我が智を信ず、敢(あえ)て他人の為にするに非ず、又我が弟子等之を存知せよ、日蓮は是れ法華経の行者なり。・・・・・所謂(いわゆる)正嘉の大地震・文永の長星は誰か故ぞ、日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀(きょうき)して刀杖を加え流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天と、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり。

 

●大聖人御在世には、礫(こいし)も大聖人に向って投げられている。辻説法の折である。ビジュアル的には、日本映画松竹『日蓮』で観ることができる。いったい誰が礫を投げたのか。その投げた者はおそらく死後、生まれ変わったとしても下賤の家に生まれつき罰を与え続けられるのではなかろうか。もしそうであるならば、その投げた者の不幸が生まれ変わって身に宿っている御仁は、改悔するしかあるまい。そうすれば、懐深い大聖人はお許し下さるであろう。富士は微動だにせず。いつの世にも富士は不滅。御本仏も不滅であるのだから。●

 

大集経に云く、仁王経に云く、涅槃経に云く、法華経に云く。設(たと)い万祈(ばんき)を作(な)すとも日蓮を用いずんば、必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん」と。

 

 御文中「日蓮は是れ法華経の行者なり」あるいは「日蓮は一閻浮提第一の大聖人なり」との仰せは、末法下種の本仏なることの

御宣言である。そしてこの事は、自他の二難の予言適中により顕われたのである。

 

またこの二難の御予言は、謗法の一切大衆を今生に改悔せしめ、後生の無間地獄の大苦を救わんとの大慈悲であられる。ゆえに佐渡御書には

「現世に云い(いい)をく言(ことば)の違(たが)はざらんをもて、後生の疑をなすべからず」と。

 

また王舎城事(おうしゃじょうのこと)には

「法華経の敵(かたき)となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天罰し給いて、皆人に見懲(みこり)させ給へと申しつけて候。日蓮法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし。かう申せば、国主等は此の法師の威(おど)すと思へるか、あへてにくみては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。

 

 以上をもって、二難必来の御予言の重要性を知るべきである。

 

二、後生の堕獄を示し謗法を誡む

 

本文 就中(なかんずく)人の世に在るや各(おのおの)後生を恐る、是(ここ)を以て或(あるい)は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。

 

通釈

なかんずく、この世に生を受けた者は、おのおの後生を恐れる。このゆえに、あるいは邪教を信じ、あるいは謗法を貴んでしまうのである。

 

 

本文

各是非(おのおのぜひ)に迷うことを悪(にく)むと雖(いえど)も、而(しか)も猶仏法に帰することを哀(あわれ)む、何ぞ同じく信心の力を以(もっ)て妄(みだ)りに邪義の詞(ことば)を崇(あが)めんや。

 

通釈

それぞれ仏法の是非に迷うことは悪(にく)むべきであるが、何とか救われたいと仏法にすがっている姿は哀れまずにはいられない。どうして同じく信心の力を以って妄(みだ)りに邪義の詞(ことば)をあがめるのであろうか。

 

語訳

各是非(おのおのぜひ)に迷う

人々が宗教の是非善悪に迷い、混乱していること。

 

 

本文

若し執心(しゅうしん)飜(ひるがえ)らず亦(また)曲意(ごくい)猶(なお)存(そん)せば、早く有為(うい)の郷(さと)を辞して必ず無間の獄に堕(お)ちなん。

 

通釈

 もし邪法への執着が捨てきれず、曲った考えがなお心にあるならば、早くこの世を去り、必ず無間地獄に堕ちるであろう。

 

語訳

曲意(ごくい)

仏の教えを正しく聞こうとせず、自分勝手な考えを持つこと。我見・私曲の心である。

 

有為(うい)の郷

娑婆世界・この世の中。

 

 

本文

所以(ゆえ)は何ん、大集経(だいしっきょう)に云(いわ)く「若し国王有つて無量世(むりょうせ)に於(おい)て施戒恵(せかいえ)を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てて擁護(おうご)せずんば、是(か)くの如く種(う)ゆる所の無量の善根(ぜんこん)悉(ことごと)く皆滅失し、乃至其の王久(おうひさ)しからずして当(まさ)に重病に遇(あ)い、寿終(じゅじゅう)の後大地獄に生ずべし、王の如く夫人(ぶにん)・太子(たいし)・大臣・城主・柱師(ちゅうし)・郡主・宰官(さいかん)も亦復(またまた)是(か)くの如くならん」と。

 

通釈

そのゆえは大集経にいわく。

「もし国王があって、無量世において布施・持戒・智恵の修行をしてきたとしても、正法がまさに滅せんとするのを見て、捨て置いて守らないならば、過去世に積んできた無量の善根はことごとくみな滅失し、乃至、その王はまもなく重病にあい、死んでから大地獄に生ずるであろう。王と同じように、夫人・太子・大臣・城主・柱師(ちゅうし)・郡主(ぐんしゅ)・宰官(さいかん)もまた地獄に堕ちるであろう」と。

 

 

本文

仁王経に云(いわ)く「人仏教を壊(やぶ)らば復(ま)た孝子(こうし)無く、六親不和(ろくしんふわ)にして天神も祐(たす)けず、疾疫悪鬼日(しつえきあっきひ)に来りて侵害し、災怪首尾(さいげしゅび)し、連禍縦横(れんかじゅうおう)し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。

 

通釈

仁王経にいわく。

「人が仏法に背くならば、家においては孝養(こうよう)の子がなく、父母・兄弟・妻子はいつも不和で、諸天善神も守らない。

 

●「霊友会」は、謗法の団体だが、その大現証を経験している。まさに家庭不和である。●

 

このすきに乗じて疾疫悪鬼(しつえきあっき)が便りを得て、色々な災難が次々と起こり、死んだ後には地獄・餓鬼・畜生に堕ちるであろう。

 

語訳

仁王経に云(いわ)く

仏説仁王般若波羅蜜教嘱累品(はんにゃはらみつきょうぞくるいぼん)の文。

 

六親

父母兄弟妻子のこと。

 

災怪首尾

災害や凶事が絶え間なく起こること。

 

●現在でいえば、

オイルショック

バブル崩壊

東日本大震災

新型コロナウイルス世界蔓延

能登地震

地球の裏側で戦乱

政変

ーなど●

 

連禍縦横

禍いが連続して、いたるところ、あらゆる人に起ること。

 

本文

若し出でて人と為らば兵奴(ひょうぬ)の果報ならん。

 

通釈

もし再び人と生まれてきた時には、兵士や奴隷のごとく束縛され酷使される苦報を受けよう。

 

●現在世、日本の万民が忙しすぎて、労働に従事し、一生を終わるのも、この抜け出せぬ謗法の前世があったからではなかったか。ほとんどの人々は、苦役からは抜け出せぬ。そういう因果を持ち合わせて生まれ出でている可能性が高い。ほんのわずかな者(富裕層)だけが、苦役から脱しているのではなかったか。仏法上では、苦役から脱している者を貴ぶ(よし)としているということでもあろう。ゆえに富裕層は仏界に近い天上界の衆生。富裕な経営者層は無数の仏であり、ほとんどの者が「悟り」を開いているともいえるのである。●

 

語訳

兵奴(ひょうぬ)の果報

人と生れては、兵隊として戦争に駆り出されたり、奴隷のように人に屈従して、全く楽しみがない最大不幸の境涯。

 

本文

響(ひびき)の如く影の如く、人の夜書(よるものか)くに、火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是(またまたか)くの如し」と。

 

通釈

響(ひびき)が声に応ずるごとく、影が体にそうごとく、人が夜文字を書くに、灯(あかり)は消えても文字は残るように、現世の造悪は因となり来生の苦果をもたらすのである」と。

 

語訳

人が夜文字を書くに

日寛上人の文段に「現世の造悪は夜書の如し。其の身の死するは火滅の如し、来生の果は字の存するが如し云云」と。

 

三界の果報

欲界・色界・無色界を三界という。

このうち欲界とは、下は地獄界から上は天上界の六欲天までをいい、食欲・性欲・権勢欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄らかな色法、すなわち物質だけが存在する天上界の一部。無色界とは、物質のない精神の世界で、最上の天上界をいう。

 

●断捨離で、最上の天上界を目指す。だから断捨離は、天上界に近い所に到り、苦役から解放される可能性があるのではなかろうか。●

 

但しここに引用された仁王経等の権経では、三界は六道輪廻あるいは三悪道・四悪道の意味で用いられ、悪業の因果に縛られて、不幸の境涯を転々とすることを意味する。

 

本文

法華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば、乃至其(ないしそ)の人命終して阿鼻獄に入らん」と。

 

通釈

法華経の第二にいわく。

「のし人が信じないでこの法華経を毀謗するならば、乃至、その人は命終ののち阿鼻地獄に堕ちるであろう」と。

 

語訳

法華経の第二に云く

妙法蓮華経巻二譬喩品の文。

 

本文

又同第七(またどうだいしち)の巻不軽品(まきふきょうぼん)に云く「千劫阿鼻地獄(せんごうあびじごく)に於て大苦悩を受く」と。

 

通釈

また同じく法華経の第七の巻不軽品(ふきょうぼん)にいわく。「死してのち千劫(せんごう)阿鼻地獄において大苦悩を受ける」と。

 

語訳

千劫

一劫は俱舎論(ぐしゃろん)によれば、人寿無量歳より百年ごとに一歳を減じて人寿十歳にいたり、この十歳から百年に一歳を増して人寿八万歳にいたるまでの間を一小劫という。また二十小劫を一中劫といい、無間地獄の寿命は一中劫とされる。しかし、これは五逆罪を犯した場合で、謗法による堕獄は無数劫の長期にわたる。いま不軽品に「千劫」とあるのは、不軽菩薩を迫害した謗法者が、最後に懺悔して軽く受けたゆえに千劫で済ませることができた。なお、ここに千劫というのは、千中劫のことを意味する。

 

本文

涅槃経に云く「善友を遠離(おんり)し正法を聞かず悪法に住せば、是(こ)の因縁の故(ゆえ)に沈没して阿鼻地獄に在つて受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。

 

通釈

涅槃経にいわく。

「正法を持つ者を避けて正法を聞かず、悪法を信ずるならば、その因縁によって阿鼻地獄に沈み、身形(しんぎょう)は縦横(じゅうおう)八万四千由延という無限の苦しみを受けるであろう」と。

 

語訳

涅槃経に云く

大般涅槃経迦葉菩薩品の文。

 

善友

善知識と同じ。正法を教えて仏道修行に導き、仏道を成ぜしめる人。

 

受くる所の身形

縦横八万四千由延とは、無間地獄の広さをいう。すなわち無間地獄の筆舌に尽せぬ大苦を表わしている。

 

本文

広く衆経を披(ひら)きたる専(もっぱ)ら謗法を重しとす、悲(かなし)いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚(おろか)なるかな、各(おのおの)悪経の綱に懸(かか)りて、鎮(とこしな)えに謗教(ぼうきょう)の網に纏(まつ)わる、此の朦霧(もうむ)の迷い、彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む。

 

通釈

このように、広く衆経を開いてみるに、もっぱら謗法が重罪であることを説いている。しかるに悲しいかな、人々はみな正法の門を出て、深く邪法の獄に入っている。愚かしいかな、悪教の綱にかかって永く謗法の網にまつわっている。この邪正のわからぬ朦霧の迷いにより、かの阿鼻地獄の底に沈むのである。

 

語訳

専(もっぱ)ら謗法を重しとす

いずれの経でも、正法を誹謗することが極重罪であることを説き、これを誡めている。

 

悪経の綱・謗法の網

邪法邪義に迷わされて、謗法の罪を重ねているさまをたとえられた言葉。

 

朦霧の迷い

霧で目の前が見えないように、邪教に迷わされて正法を見失っているさま。

 

彼の盛焔(じょうえん)

「彼の」とは来世のこと。「盛焔(じょうえん)」とは阿鼻地獄のこと。

 

本文

豈愁(あにうれ)えざらんや、豈苦しからざらんや。

 

通釈

どうして愁(うれ)えずにいられようか、どうして苦しまずにいられようか。

 

浅井先生御講義

 前の御文が現世の二難を予言されたのに対し、ここでは死後の堕獄に示され、以て謗法の罪科の重大なることを御教示下されている。

 もし三世の生命を知るならば、死後地獄に堕ちるほど恐しいことはない。これを恐れないのは、赤児(あかご)等、たとえそれがどれほど堪えがたいものに思われても、死後の地獄の大苦に比べれば物の数ではない。しかも現世はわずか七十年、死後の未来は永劫である。

 されば人にとって、死後の堕獄こそ最も恐れ、憂えねばならぬところである。ゆえに後生を知るを賢人といい、後生を恐れぬ者を愚人というのである。

 ここで三世の生命について少しく論ずれば、生命は死んでも消滅するものではなく、また生まれても無から有(う)を生じたのではない。生死はただ生命の存在形態の変化に過ぎない。あらゆる生命は生死を繰り返しながら、宇宙と共に常住しているのである。そして過去世・未来世と因果が繋がっている。ゆえに過去世の行為すなわち宿業により現世の幸・不幸は決まり、また現世の所行により来世の果報は決まるのである。この三世の因果を本文には仁王経を引いて

「人の夜書(よるものか)くに、火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是(またまたか)くの如し」と仰せらえている。すなわち「夜書(よるものか)く」とは現世の増悪、「火は滅する」とはその身の死すること、そして「字は存する」とは後生の果報である。

 "死ねばすべては終り”などというのは、因果を知らぬ者のたわごとに過ぎない。

 

●その戯言をなぜ謂わなければならないのかということもある。その者は、怖がっている可能性がある。現在世のその者の所行は、自民党の裏金問題を発生させた者が奢って言うこともあるだろうし、罪を作りつつ罪と思わんで生き続けている者もあろう、とかくそのような戯言を謂う者は、その人生において「罪」を作りながら生きている可能性がある。

 故に、死後があるとすれば、その罪により地獄に堕とされるかもしれない。そう思えば、そのようなこと(死後の堕獄)を否定したいと思うのが人間であろう。ゆえに戯言を謂うのである。●

 

 死後の生命は無相であるから目には見えない。しかし大宇宙に冥伏(みょうぶく)して、生前の業報(ごうほう)を敏感に感受していくのである。ゆえにもし殺人などの悪行を犯せば、死してのち必ず地獄の業報を受ける。

 

 ●故に、殺人を犯した者などは、死ねばすべては終りと言いたくなるのであろう。●

 

 この地獄にも種々の差別があるが、「阿鼻地獄」というのは地獄の中でも最も苦痛の甚しい最下の地獄で、耐えがたい大苦が間断(かんだん)無く襲うところから、「無間地獄」ともいわれる。

 

 ●無間地獄に堕ちた者がどのような姿になったかを想像してみよう。おそらく「蚊(か)」であろう。蚊は、数千万年からの歴史のある昆虫であろう。ハリウッド映画「ジュラシックパーク」では、松脂に保存された蚊の体内の血液をもとに恐竜を作り出したということになっている。それほどの歴史を保存する「蚊」である。しかし、吸血鬼であり(まさに鬼)、人間にとって疎ましい存在であり、刺されようものなら一瞬にして叩き潰されてしまうであろう。その「蚊」の無間地獄。叩き潰される場面などは、まさに地獄である。そして生まれ変わっても再び蚊として人間の血を吸い続けるしかない。死んでも、死んでも「蚊」としてしか生まれてこれない。これが無間地獄である。

 現在世界の為政者はこの世に地獄を齎そうと躍起になっている。悪鬼が地球上に下りて全てのものを破壊せんとしている。それが人類の辿る道であり、前代未聞の大闘諍への道である。この世に生き地獄が表出するのも時間の問題やもしれん。すでに、ウクライナ本土は地獄の様相である。なぜ地獄が齎されてしまったのか? 

 日本の謗法が世界に影響していることは言を俟たない。ゆえに、まずは創価学会を何としても改悔せしめ、謗法を止めねばなるまい。原因はわかっている。わかっているにも関わらず、止められんのだ。創価学会。この世に地獄を齎す池田教。早く正法に帰せねばな。●

 

 経文には他の地獄の苦については具(つぶ)さに説かれているが、この無間地獄の大苦だけは説かれていない。そのわけは

「もし仏、此の地獄の苦を具(つぶ)さに説かせ給はば、人聴いて血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はず」(顕謗法抄)のゆえである。

 

 大聖人は法蓮抄に、中国の名書家の鳥竜(おりゅう)が法華経を誹謗して無間地獄に堕ちたのち、この轍(てつ)を息子の遺竜には踏ませまいと、夢枕に立って遺竜に告げたという故事を引いて、無間地獄の大苦を次のごとく御指南されている。

「我は是れ汝が父の鳥竜(おりゅう)なり、仏法を謗せし故に舌八(したや)つにさけ、五根より血を出し、頭七分(こうべしちぶん)破れて無間地獄に堕ちぬ。彼の臨終の大苦こそ堪忍すべしともおぼへざりしに、無間の苦は尚百千億倍なり。人間にして鈍刀(どんとう)をもて爪をはなち、鋸(のこぎり)をもて頸をきられ、炭火の上を歩(あゆ)ばせ、棘(いばら)にこめられなんどせし人の苦を、此の苦にたとへばかずならず」と。

 

 この世の拷問などは、無間地獄の大苦に比べれば物の数ではないと仰せられる。しかもこの大苦が、少しの間断も無く連続するのである。

 

●まさに蚊の苦しみ。間断なく叩き潰される。そして生れ、また叩き潰される●

 

 この無間地獄の寿命は一中劫(いちちゅうこう)とされている。一中劫とは約三億二千万年に相当する。

 

●恐竜の意味も分かろうものである。●

 

無間地獄に堕ちる業因は五逆と謗法に限られる。

 同じ殺人でも、他人を殺すだけでは、他の地獄には堕ちてもこの無間地獄には堕ちない。父を殺し母を殺しあるいは破和合僧等の五逆罪を犯した時、始めて一中劫の間この無間地獄に堕ちるのである。

 しかし、もし日蓮大聖人を憎嫉したり、大御本尊を誹謗する者は一中劫では済まない。この一中劫の大苦を幾たびも繰り返し、ついに無数劫に至ると経文には説かれている。すなわち法華経譬喩品には

「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則(すなわ)ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更(また)生まれん。是(かく)の如く展転(てんでん)して無数劫に至らん」と。

 

 この謗法の罪の重さ、よくよく心腑に染めねばならぬ。ゆえに大聖人は本文に

「広く衆経を披(ひら)きたるに専(もっぱ)ら謗法を重(おも)しとす。悲しいかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各(おのおの)悪教の綱に懸(かか)りて、鎮(とこしな)えに謗教の網に纏(まつ)わる。此の朦霧(もうむ)の迷い、彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む、豈愁(あにうれ)えざらんや、豈苦しからざらんや」

と誡め給うのである。

 さてそれでは、死後地獄に堕ちる、あるいは成仏する等は、何を以て知ることができるのであろうか。

仏法は空理空論ではない、すべて証拠を以て論ずる。その証拠こそ臨終の相である。

 死後の堕獄あるいは成仏は、その前相が厳然とその人の臨終の相に顕われる。ゆえに臨終の相の善悪を以て、後生を知ることができるのである。

 

千日尼御前御返事に云く

「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色(こくじき)となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し。善人は設(たと)い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色(びゃくじき)となる、又軽き事鵞毛(がもう)の如し、輭(やわらか)なる事兜羅綿の如し」と。

また妙法尼御前御返事に云く

「されば先ず臨終の事を習(なろ)うて後(のち)に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘(かんが)へ集めて、此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向(むか)えてみ候えば、すこしもくもりなし」と。

 

 さらに神国王御書には邪法真言の元祖・善無畏三蔵の堕獄を断定されて云く

「善無畏三蔵は、乃至、死する時は『黒皮隠隠(こくひいんいん)として骨甚(ほねはなは)だ露焉(あらわる)』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕(あらわ)し給いぬ。人死して後(の)ち色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」と。

 

 およそ臨終は人の意志ではどうにもならぬものである。しかるに三世の生命を見通した上で、この臨終の法則性を云い切る仏法の凄さ仏智の偉大さには、驚嘆せざるを得ない。以上の御指南のごとく、臨終の証拠を以て死後の果報を知ることができるのである。

 いわんや大聖人が御予言された自界叛逆・他国侵逼の二難が、一分も違わず現世に符合するにおいては、どうして後生のことを疑えようか。ゆえに佐渡御書には

「現世に云(いい)をく言(ことば)の違(たが)はざらんをもて、後生の疑いをなすべからず」と仰せられている。

 

 実に立正安国論における自他の二難の御予言も、その正意はこの適中を以て一切衆生に末法一人の下種の本仏を信ぜしめ、今生に改悔せしめて未来の無間地獄の大苦を救わんとあそばす大慈悲にほかならない。

 

 ゆえに蒙古の侵略が事実となった文永十一年十二月の顕立正意抄には、立正安国論の二難予言の御文を挙げてのち

「又立正安国論に云く『若し執心飜(しゅうしんひるが)えらず亦曲意猶存せば、

 

●現在は創価学会の執心(国立戒壇の否定、師敵対が執心)翻らず。飜わけもなく、曲意猶存せばの状況である。●

 

早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕せん』等云云。今符号するを以って未来を案ずるに、日本国の上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し。

 

●大地を的と為す。まさに日本国の大地、その大地を的と為すのである。そうして発生した巨大地震、大戦乱、大疫病等の災難。天災だから仕方なしという前に、心改悔なければ、打ちひしがれてしまうのである。日本は正法有縁の妙国である。早く帰さねば国がまた亡ぶ可能性が高まっている。●

 

三、立正安国論を結勧す

 

本文

汝早く信仰の寸心を改めて速(すみやか)に実乗の一善(いちぜん)に帰せよ。

 

通釈

汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰依せよ。

 

語訳

実乗の一善(いちぜん)

附文の辺は実大乗の法華経であるが、元意は寿量文底一本門の三大秘法、すなわち本門戒壇の大御本尊のこと。

 

本文

然れば則(すなわ)ち三界(さんがい)は皆仏国になり、仏国其れ衰(おとろ)えんや。

 

通釈

そうすればその時、三界は皆仏国となる。この仏国がどうして衰えようか。

 

語訳

仏国

正法により成仏した国土。

 

本文

十方は悉(ことごと)く宝土(ほうど)なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。

 

語訳

宝土

仏国土のこと。

 

通釈

また十方はことごとく宝土となる。宝土がどうして壊(やぶ)れようか。

 

本文

国に衰微無く土(ど)に破壊(はえ)無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。

 

通釈

もし国に衰微がなく、また国土に三災七難による破壊(はえ)がなければ、身は安全であり心は禅定となるであろう。

 

語訳

禅定

心に不安がなく、静かで落ちついていること。

 

本文

此の詞(ことば)此の言(こと)、信ずべく崇(おが)むべし。

 

通釈

この言葉を深く信じ崇めるべきである。

 

浅井先生御講義

 

 この一節は立正安国論を結び勧める重要な御文である。

 御文において「信仰の寸心を改めて」とは破邪、「実乗の一善に帰せよ」とは立正、「然れば則ち三界は皆仏国」以下は安国である。

 立正安国論の全体を拝するに、その御指南は専ら破邪に重きが置かれ、立正についての御教示はただここに示された「実乗の一善に帰せよ」との御文だけである。

 このことは、本論が邪法に執着する国主への諌暁の書であること、また未だ御化導の始めなるがゆえである。

 

「実乗の一善に帰せよ」 

「実乗の一善」とは、附文の辺は実大乗である法華経を指す。しかしこの御言葉は、権経に執する念仏等の邪法に対比して、いわゆる権実相対の立場で仰せられた御表現である。ゆえにその元意を尋ねれば、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法を指すことは、諸抄の意に明らかである。

 

 そして三大秘法の随一は、弘安二年十月十二日に図顕あそばされた「本門戒壇の大御本尊」である。ゆえに「実乗の一乗」とは、その実体まさしく「本門戒壇の大御本尊」の御事なのである。

 この大御本尊を日本一同に信じ奉り、本門戒壇すなわち国立戒壇に安置し奉る時、日本は仏国になる。されば「実乗の一善に帰せよ」とは国立戒壇を建立することにある。

 

 ●このことは、極めて重要である。現在、日本に於て、一神教となっているは、神道である。伊勢神宮を本宮とした、神道が、天皇御出現より、延々と続いている。しかしながら、仏法界は、多様性を認めあまりにも幅広く邪宗派が蔓延っている。これは、末法濁悪の世にあって、釈尊の教えに背くことであり、その背きによって数々の罰当たりとなっている。

 国を亡ぼす勢いでの罰当たりである。無論、神道でさえ、正法を立てずに突き進み、国家を崩壊させたわけだが、仏法界の罪創りもあまりにも重い。

 「実乗の一善に帰せよ」これは、日本国の宿命である。その宿命に背くが如くになっているため、数々の不幸が巻き起こってしまうのである。

 一神教の神道に、一乗の正仏法。これは日本国において最強であろう。これで正仏法を主として、神を従とすれば、国土は諸天善神に間違いなく守られる。御守護いただけるのである。

 そうにもかかわらず、既得権益の強い仏法界、諸宗派は、諸天の怒りを買いつつ、生き長らえている。いずれ必ず、一乗に帰する時が来る。その時までは、現状のまま濁悪の時代を突き進む可能性がある。

 いずれにせよ、多様性を重視して、国亡ぼすは仏法界である。早く一乗に帰せれば、日本は守られる。果たしてそのことに仏法界は気づくのかどうか。今後のことであろう。

 創価学会の民衆立だから、国立は有り得ないというのも、正仏法の何たるかをまったく理解しない戯言である。日本国民全員が一乗に帰する時を待つのである。 そのために折伏があり、知らせ、気づかせるのだ。そうしなければ日本は同じ過ちを繰り返そう。次に国家が滅んだら日本は終りぜよ。●

 

ただしこの本門戒壇の建立は広宣流布の暁でなければ実現し得ない。御在世には未だこの時至らず、よって大聖人はこの大事を日興上人に命じ給うたのである。ゆえに一期弘法付嘱書(いちごぐほうふぞくしょ)に云く

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり、就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり」と。

 

「日蓮一期の弘法」とは申すまでもなく戒壇の大御本尊の御事である。この大御本尊を日興上人に付嘱し、事の広宣流布の時、富士山に本門戒壇を建立せよと御遺命し給うたのである。

 

 実に本門戒壇とは「本門戒壇の大御本尊」の力用により、日本および全世界を仏国と化する秘術なのである。

 

 ではこの本門戒壇は、いつ、どのようにして、どこに立てられるべきなのか。これを明かされたのが、御入滅の年に著わされた三大秘法抄である。いまその御文を挙げれば

 

「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持(たも)ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つ可(べ)きのみ。事の戒法と申すは是れなり。

 

 三国並びに一閻浮提の人(にん)・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふ)み給うべき戒壇なり」と。

 

重大な御指南であるから少々解説を加える。

 

 まず戒壇建立の「時」についての御指南が「王法仏法に冥じ・・・・未来に移さん時」までの御文である。

「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」とは、一国の統治権力そして政治が、日蓮大聖人の三大秘法こそ国家安泰・衆生成仏の唯一の正法であることを認識し、これを尊崇守護することである。

 そして、その具体的な姿を示されたのが、次の「王臣一同に本門の三大秘法の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」との御文である。

 

 すなわち日本国の国主たる天皇も、諸大臣も、全国民も、一同に「本門戒壇の大御本尊」を信じて南無妙法蓮華経と唱え、この正法を守護するにおいては身命も惜しまぬとの熱烈の護法心が一国にみなぎる時、と仰せられる。このような状況が日本国に現出した時が戒壇建立の時である。立正安国論に守護付嘱を説き、「有徳王・覚徳比丘」の故事を引き給うた御意はまさにここにある。御化導の始めの立正安国論と、最後の三大秘法抄と、本末究竟して等しく、函蓋相応(かんがいそうおう)する妙を深く拝すべきである。

 次に戒壇建立の手続については

「勅宣並びに御教書を申し下して」と定められている。「勅宣」とは国王たる天皇の詔勅、「御教書」とは当時幕府の令書(れいしょ)、今日においては国会の議決がこれに当る。まさしく「勅宣並びに御教書」とは、正法護持の「国家意志の表明」ということである。

 なにゆえ戒壇建立に当って、大聖人はかかる手続を定め給うたのであろうか。謹んで案ずるに、戒壇建立の目的は仏国の実現にある。されば一個人・一団体の正法護持では国土の成仏は叶わない。一国の総意が国家意志にまで凝集し、その公式表明によって戒壇が立てられてこそ、始めて国家・国土は成仏し、仏国が実現するのである。ゆえに「国家意志の表明」は、戒壇建立に欠くべからざる必要手続なのである。このゆえに御遺命の本門戒壇を国立戒壇と称するのである。

 

 次に場所については

「霊山浄土に似たらん最勝の地」と仰せられている。ここには地名が略されているが、前に挙げた「一期弘法付嘱書」には「富士山に」と特定されている。さらに日興上人は富士山の中には南麓の最勝の地「天生ヶ原」をその地と定められ、この御相伝により日寛上人は「事の戒壇とは、すなわち富士山天生ヶ原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と明記されている。

 

 戒壇建立についての時・手続・場所はここに明らかである。かかる本門戒壇が建立された時、始めて日本は仏国となるのである。すなわち一国に不惜身命の護法心がみなぎる時、国家意志の表明を以て富士山に国立戒壇が立てられれば、その時・手続・場所はここに明らかである。かかる本門戒壇が建立された時、始めて日本は仏国となるのである。すなわち一国に不惜身命の護法心みなぎる時、国家意志の表明を以て富士山に国立戒壇が立てられれば、その時日本国の魂は御本仏の当体たる「本門戒壇の大御本尊」となる。御本仏を魂とする国はまさしく仏国ではないか。この仏国は金剛不壊である。竜の口における御本仏の厳然の威容を拝するならば、仏国の不壊もまた確信できよう。ゆえに本編に「仏国其れ衰えんや、乃至、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや」と仰せ給うのである。

 

 次に「時を待つべきのみ」とは勧誡(かんかい)である。勧(かん)とは、広宣流布は大地を的とするところであるから、身命を惜まず弘通せよとの勧奨(かんしょう)。誡とは、時来らざる以前に戒壇を立てることの断じて不可なることを誡め給うのである。もし一国の謗法と邪正(じゃしょう)を決せぬうちに戒壇を立てれば、邪正肩を並べ謗法を容認することになるからである。

 「三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふ)み給うべき戒壇なり」

 

 とは、本門戒壇の広大なる利益を示されたものである。この戒壇は日本のためだけではない。中国・印度さらには全世界の人々の懺悔滅罪の戒法である。いや人界だけではない、その利益は天界にまで及ぶのである。ゆえに「大梵天王・帝釈等・・・・」と仰せられる。なんと広大無辺の大利益ではないか。

 

 「本門戒壇の大御本尊」は、日本および全世界の人類に総じて授与された御本尊である。かかる全人類のための大法を、日本が国運を賭しても守り奉る。これが日本国の使命である。日本は御本仏出現の国であり、三大秘法広宣流布・根本の妙国であるから、この義務と大任を世界に対して負うのである。

 かかる崇高なる国家目的を持つ国が世界のどこにあろう。人の境界に十種あるごとく、国にも十界がある。

 

戦禍に怯える国は地獄界(●現在のウクライナなど●)にあり、飢餓に苦しむ国は餓鬼界(●現在のガザ●)であり、侵略をこととする国は修羅界(●現在のロシアなど●)である。いま全人類の成仏の大法を、全人類のために、国運を賭しても護持する国があれば、まさしく仏界の国というべきである。

 

 そして全世界がやがてこの大法にめざめ、富士山に建立された本門戒壇を中心とすれば、すなわち世界が仏国土となる。この時、三災七難はなくなり、全人類は心豊かに三大秘法を修行し、一生成仏を遂げていくのである。

 

 教行証御書に云く

「前代未聞の大法此の国に流布して、月氏(がっし)・漢土・一閻浮提の内の一切衆生、仏に成るべき事こそ有難けれ、有難けれ」と。

 

 これこそ大聖人の究極の御願業であられる。そしてこの仏国土実現の鍵が、日本における国立戒壇の建立にある。「立正」の意は、まさしくここにあるのである。

 

 以上、三大秘法抄の御文と照応する時、「実乗の一善に帰せよ」の文意に炳焉(へいえん)として明らかであろう。

 

第十段 正に帰し謗法対治を誓う

 

本文

客の曰く、今生後生誰か慎まざらん、誰か和(したが)わざらん。

 

通釈

客のいわく。

今生・後生とも誰が慎(つつし)まないものがあろう。誰が和(したが)わないものがあろうか。

 

本文

此の経文を披(ひら)きて具(つぶさ)に仏語を承わるに、誹謗の科(とが)至つて重く、毀法(きぼう)の罪誠に深し。

 

通釈いま主人より経文を開いてつぶさに仏語を承わるに、正法を誹謗する科(とが)は至って重く、正法を毀(やぶ)る罪はまことに深いものである。

 

本文

我一仏を信じて諸仏を抛(なげう)ち、三部経を仰ぎて諸経を閣(さしお)きしは、是れ私曲(しごく)の思(おもい)に非(あら)ず、則(すなわ)ち先達(せんだつ)の詞(ことば)に随(したが)いしなり。十方(じっぽう)の諸人も亦復(またまた)是(か)くの如くなるべし。

 

通釈

自分が弥陀の一仏を信じて諸仏を抛ち、浄土の三部経を仰いで諸経を閣(さしお)いたのは、自分一人の考え違いでなく、ひとえに念仏の先達の言葉にしたがったのである。十方の諸人もまた同様であろう。

 

語訳

一仏

ここでは阿弥陀仏をさす。

 

私曲(しごく)の思(おもい)

自分勝手に立てた妄想。

 

三部経

浄土三部経、すなわち阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経のこと。

 

先達

速くは曇鸞・道綽・善導・慧心(えしん)、近くは法然をさす。

 

性心を労し

絶え間ない苦悩に心を労し、生命力をむしばまれること。

 

 

本文

今世(こんぜ)には性心(しょうしん)を労し、来生(らいしょう)には阿鼻に堕せんこと、文明(もんあきら)かに理詳(りつまびら)かなり。

 

通釈

そのため現世においてはいたずらに辛労を味い、さらに来世には阿鼻地獄に堕ちること、文証も道理も明白で少しも疑う余地がない。

 

本文

疑うべからず。弥(いよい)よ貴公の慈誨(じげ)を仰ぎ、益(ますます)愚客の癡心を開き、速(すみやか)に対治を廻(めぐら)して早く泰平を致し、先(ま)ず生前(しょうぜん)を安(やすん)じ、更に没後(もつご)を扶(たす)けん。

 

通釈

今後ともいよいよ主人の大慈悲の訓戒を仰ぎ、ますます愚かしい自分の癡心(ちしん)を開き、速かに謗法対治の方策を立てて泰平を実現し、まず現世を安穏にし、さらに後生を扶けたいものである。

 

語訳

慈誨(じげ)

慈悲あふれる教訓。相手を救わんとする真心から出た厳格な教え。

 

愚客の癡心を開き

客がへりくだって云った言葉。愚かな自分の心を主人の教えによって開き、天下を安んずる方法を知ることができました。との意。

 

生前(しょうぜん)・没後(もつご

今生と死後の来世。

 

本文

唯我信ずるのみに非ず、又他(またた)の誤りを誡めんのみ。

 

通釈

そのためには、ただ自分がひとり正法を信ずるだけでなく、他人の誤りも誡め折伏するのみである。

 

 

●は小生

 

 毎日新聞

 

トランプ氏銃撃 容疑者の車内から爆発物 動機解明は難航も

 

 衝撃的な事件が発生した。なんとあのガードの固い米国前大統領が銃撃されたのだ。

大統領時代には防弾チョッキを身にまとい、いつ暗殺計画に巻き込まれても防護できる体制を整えていた。

現在の元大統領は、無防備だったのか。

 かすり傷で済んだようだが、下手をすれば死亡の可能性も否定できまい。

 

 容疑者は20歳の青年のようだが、恐ろしい限りであろう。これが何らかのパフォーマンスなのかを含めて全人類は震撼するしかあるまい。

日本にとっては、現米国政権との関係が今後薄れてゆくため、この銃撃事件を速報としては流さないようにしているようである。日本の政権与党への感情を逆なでさせないようにする戦略であろうが、そのような印象操作がいつまで続くのかと云ったところ。日本の政権与党は、大ダメージと、そういう感情を人々に齎す今回の銃撃事件、米国T元大統領暗殺未遂事件であった。

 

MINKABU

 

 

 

総額1億5900万円!都知事選、上位3名以外「供託金没収」の深刻さ…ホントどうしようもない「大炎上選挙」に絶望した国民
 

 これが、末法濁悪の日本のありさまよ。礼節を欠いて国亡ぶは、今に始まったことではない(「素肌を出して踊り狂う」が流行り出し遂に礼節を欠いて国が滅んだ中国の故事がある。「立正安国論」によって明らかにされる)。急速に傾きつつある日本が、このような現象を起こさざるを得ない状況にあるということが問題なのだ。

 

 意識無意識に流される日本国民である。濁悪の日本に、このようなパフォーマンスを繰り広げるしか、政権与党の存続の道がないのかというお粗末さ。

 支配層は、どのような手段をもってしても現状維持なのであろう。

それがどのような結果を招くかまではわかっとらんのではないか。

 

 今回見事濁悪の日本を表出させた東京都知事選挙。まさに証明するための題材となったわけなのだ(露出狂は、メンズセクハラにもなりかねんだろうに)。

 

この記事では、マイナンバーで選挙の電子化が云われているが、マイナンバーを始めたのが、軍事独裁者の安倍晋三時代であるということに留意する必要がある。これで、選挙が、政権与党側に有利に操作される可能性が見出されるのである。

ゆえに、マイナンバー電子選挙制度であるならば、絶対的に操作はできないということを証明する必要があるだろう。

不正が行われた場合も含めて厳罰に処することも条文にあった方がよい。

支配層は喜んでマイナンバー選挙制度を導入しようと云った時が一番危ない。今回の骨抜き裏金規制法にせよ、とにかく既得権益を守り抜こうとするのが支配層なのである。

 自民党、公明党が政権与党でなければ困るのである。ゆえに躍起になってマイナンバー電子選挙制度を導入する可能性もある。その場合は、不正が行われる可能性があるから情報を操作した場合は厳罰化せよと申し上げるのだ。●

 

『立正安国論』つづき

 

浅井先生御講義

 この第十段は客の言葉だけで主人の答えはない。そのわけは、客はすでに信伏し主人の心のままに領解して対治を誓うゆえに、客の言葉はそのまま主人の心になっているからである。

 

 客は謗法こそ今生・後生に不幸をもたらす根本の原因であることを深く認識し、自分も含め人々が正法を誹謗したのも、ひとえに邪師を信じたゆえであると、謗法の邪法・邪師の対治を堅く誓っている。

 

「唯我(ただわれ)信ずるのみに非ず、又他の誤りを誡めんのみ」

 

客の決意が右の言葉で結ばれているのは、折伏こそ立正安国の実践であることを示されたものである。

 

自分だけ正しい仏法を信じていればそれでよいというのは末法の信心の在り方ではなく、また仏法を破壊する者を見てそのまま黙っているは仏弟子ではなく、かえって「仏法の中の怨(あだ)」である。

 

曽谷殿御返事に云く

「涅槃経に云く、『若し善比丘(ぜんびく)あって法を破る者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駈遣し挙処せずんば、当(まさ)に知るべし、是(こ)の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能(よ)く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者(けんねほうしゃ)の見(けん)と、置不呵責の置(ち)とを、能々(よくよく)心腑(しんぷ)に染むべきなり。乃至、謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなし、はかなし」と。

 折伏の精神がなければ、いつのまにか謗法の者に与同してしまうことになる。この与同罪により成仏ができなくなるのである。

 また弘通をしなければ広宣流布は達成されない。広宣流布が実現しなければ国立戒壇の建立もない。大法弘通こそ立正安国論を推進するものである。ゆえに御遺命を奉じられた第二祖日興上人の御遺誡に云く

「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨て随力弘通を致すべき事」と。

 

 まことに、広宣流布・国立戒壇建立を目指して折伏弘通に励むことこそ、立正安国の実践であることを、深く心腑に染めるべきである。

 

立正安国論奥書

 

本文

 文応元年(ぶんのうがんねん)太歳庚申之を勘(かんが)う。正嘉より之を始め文応元年に勘え畢(おわ)んぬ。

 

通釈

文応元年にこの立正安国論を述作した。正嘉より勘え始め、文応元年に勘え終ったのである。

(西暦1257年~1260年)

 

 

本文

 去(い)ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の剋(こく)の大地震を見て之を勘(かんが)う。

 

通釈

去る正嘉元年八月二十三日午後九時ごろに起きた大地震を見て、この立正安国論を勘えた。

 

語訳

戌亥の剋

午後九時ごろに相当する。

 

本文

其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり。

 

通釈

その後文応元年七月十六日を期して、宿屋禅門(やどやぜんもん)を通じ、にこの書を奉った。

 

語訳

宿屋禅門

宿屋左衛門入道光則(みつのり故最明寺入道殿)のこと。北条時頼および北条時宗に側近として仕えていた。竜の口の大奇瑞(だいきずい)を見て、大聖人に帰依したと伝えられている。

 

故最明寺入道

鎌倉幕府の第五代執権・北条時頼のこと。

 

本文

 其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥々(いよいよ)此の災(わざわい)の根源を知る。

 

通釈

その後文永元年七月五日の大彗星を見て、いよいよ天下の災難の根源を知った。

 

語訳

文永元年太歳甲子七月五日大明星

この大明星とは大彗星のことである。この年の六月二十六日東北の空に大彗星が現われ、七月四日再び輝き始めて八月まで輝きわたった。

 七月五日はその大きさと光が最も増した時である。

 

本文

文応元年(太歳庚申より文永(ぶんねい)元年太歳戊辰後の正月十八日に至るまで九ヶ年(くかねん)を経て、西方大蒙古国自(よ)り我が朝(ちょう)を襲う可(べ)きの由牒状(よしちょうじょう)之を渡す。

 

通釈

そして文応元年より文永五年の閏正月十八日に至るまでの九ヶ年を経て、西方大蒙古国より日本を襲うべき由(よし)の国書が到来した。

 

語訳

牒状

国書のこと

 

 

本文

又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶う。之に准じて之を思うに、未来亦然る可(べ)きか。

 

通釈

また同六年には重ねて国書がもたらされた。すでに立正安国論に記した予言は、厳然と符合している。これに准じてこれを思うに、未来も亦(また)必ずそのようになるであろう。

 

 

本文

 此の書は徴(しるし)有る文(ふみ)なり。是れ偏(ひとえ)に日蓮の力に非ず。法華経の真文(しんもん)の感応(かんのう)の至(いた)す所か。

 

通釈

この書は現証をともなった文である。これは日蓮の力ではない。偏(ひとえ)に法華経の真文(しんもん)の感応のいたすところである。

 

語訳

現実の証拠、現証のこと。

 

本文

文永六年太歳己巳十二月八日之を写す。

 

通釈

文永六年十二月八日、これを写す。


 

●は小生

 

 

 

「あらゆることは仏法よりこと起こること」

 

富士大石寺の扉を閉めるプロジェクト

 

仏法画 正法 第一章 「諸天逆切~瞋りの怨嫉~」

日本の正法が世界を救うことを信じて、仏法画を描き続けます。

 

 

 

医学論文級気づき

 

その人の白血球数によって、寒がり、暑がりがわかる論

 

『感冒罹患確率の一考察』

 

寒がりは人体の白血球数が少ない

暑がりは人体の白血球数が多い

 

風邪を引きやすい人は白血球数が少ない

風邪を引きにくい人は白血球数が多い

 

新型コロナウイルスにもかかりにくいのが白血球数が多い人

 

西洋医学の東洋医学の科学的分析はこのあたりで明確化するやもしれん。

 

その人の体質とは、白血球の過小、過多によって決まる。