立正安国論

第二章 悪比丘仏法を破する相を示す

一、法師は諂曲、王臣は不覚なるを明かす

 

本文

 主人喩(さと)して曰く、仏閣甍(いらか)を連(つら)ね、経蔵軒(のき)を並べ、

 

通釈

 客が色をなしたので、主人はこれを喩(さと)していうには、 たしかに仏閣・経蔵は軒を並べるようにたくさん建っている。

 

語訳

仏閣

閣は

高殿(たかどの)

高楼(こうろう)

御殿

ーをいう。

仏閣とは、立派な構えを持った仏教寺院。

 

甍(いらか)

家の上棟(うわむね)をいい、転じて屋根瓦、瓦ぶきの屋根をいう。

 

本文
僧は竹葦(ちくい)の如く、侶は稲麻に似たり、崇重(そうちょう)年旧(としふ)り、尊貴日(そんきひ)に新(あら)たなり。

 

通釈

また僧侶は竹葦稲麻(ちくいとうま)のごとく大勢いる。そして寺院・僧侶に対する民衆の尊敬はすでに久しく、その信仰は日々に新たである。

 

語訳

竹葦稲麻

 数が多いことのたとえ。

 

本文

但し法師は諂曲(てんごく)にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し。

 

通釈

但し、法師は不正直であって仏法を曲げ、人のふみ行うべき道を惑わしている。またその言葉を聞く王臣は無智であり、仏法の邪正を弁(わきま)えることができない。

 

語訳

諂曲

自分の意を曲げて、こびへつらうこと。

 

人倫を迷惑し

人倫とは人の踏み行うべき道。ここでは邪法の僧たちが諂曲ゆえに人倫を迷わせているの意。

 

浅井先生講義

 客が表面だけを見て仏法繁昌を錯覚しているのを、主人が諭(さと)すところである。 

 たしかに客のいうごとく寺院は軒を並べ、僧侶は大勢でいずれも尊げである。ただし、これらはことごとく正法を誹謗する邪僧であり、国を亡ぼす魔僧である。

 

 ●そうして鎌倉幕府は亡んだ。●

 

 「但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」の一文は、客の錯覚を打ち破る強烈の御指南である。

 実に仏弟子と見える者の中に、仏法を破壊する者がいるのである。たとえそれらは尊げなる姿をしていようとも、その心は不正直で名利のために王臣にへつらい、仏法を曲げて人々を迷わしている。一国の王臣ならびに民衆は邪正を弁(わきま)えずにこれを尊敬している。これが亡国の因縁となる。

 以下、その相を仁王経・涅槃経・法華経の文により証せられるのである。

 

二、仁王経を引き悪比丘を証す

 

 本文

仁王経に云く「諸(もろもろ)の悪比丘(あくびく)多く名利(みょうり)を求め、国王・太子・王子の前に於(おい)て、自ら破仏法の因縁・破国(いんねん・はこく)の因縁を説かん。

 

通釈

 仁王経にいわく。

 もろもろの悪相侶は、多く名誉や利益を求め、国王・太子・王子等の前で、自ら仏法を破る因縁や、国を破る因縁を説くであろう。

 

語訳

悪比丘

比丘とは男の僧のこと。悪比丘とは、名利のために形ばかり僧となり、邪法を説く輩(やから)のこと。

 

名利

名誉と利養

 

 

本文

其の王別(わきま)ずして此の語を信聴(しんちょう)し、横(よこしま)に法制を作りて仏戒(ぶっかい)に依(よ)らず、是(これ)を破仏・破国の因縁と為す」上已。

 

通釈

またそれを聞く王は邪正がわからずにこの言葉を信じ、道理を無視して勝手な法制を作り仏の戒(いましめ)によらない、これを破仏・破国の因縁と為すのである。

 

語訳

横(よこしま)に法制を作りて

正法を無視して悪い法律制度を作ること。

 

仏戒

仏のいましめ。

 

三、涅槃経を引き悪比丘を証す

 

本文

 涅槃経に云く「菩薩、悪象等に於ては心に恐怖(くふ)すること無かれ、悪知識(あくちしき)に於ては怖畏(ふい)の心を生ぜよ、悪象の為に殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」上已。

 

通釈

涅槃経にいわく。

 菩薩よ、乱暴な悪象などは少しも恐れることではない。だが、邪法に導く悪知識に対しては恐れなければならない。なぜかといえば、悪象に殺されても三悪道に堕ちることはないが、悪友に惑わされて殺されれば必ず三悪道に堕ちるからである。

 

語訳

涅槃経

釈尊が跋提河(ばつだいが)のほとり沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教えで、大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)ともいう。

 

悪知識

 正法を誹謗して人をたぶらかす邪智の者。

 

三趣

地獄・餓鬼・畜生の三悪道。

 

悪友

悪知識と同じ。

 

浅井先生講義

 邪法・邪師が人を不幸に導く最たるものであることを教えられている。

 昔の印度では、凶暴な象は最も人々に恐れられていた。しかしその悪象に殺されても、破壊されるのはただ肉体だけであって心は壊(やぶ)られない。だから恐れる必要はない。これは今日でいえば交通事故で死ぬことなどが当ろう。これらの事故死では、決して地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることはないのである。

 しかし。邪法の者にまどわされれば、身も心も壊(やぶ)られ、必ず三悪道に堕ちる。ゆえに正しい仏法を誹謗する悪知識こそ恐れなければならない。

 

四、法華経を引き悪比丘を証す

 

本文

 法華経に云く「悪世(あくせ)の中の比丘(びく)は邪智(じゃち)にして心諂曲(こころてんごく)に、未(いま)だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)い、我慢の心充満せん。

 

通釈

法華経にいわく。

末法悪世の中の僧侶は邪智で、へつらいの心が強く、仏法を曲げ、未だ何の悟りもないのにすでに悟ったように思い、慢心の心が充満している。

 

語訳

悪世

闘諍堅固・白法隠没の五濁悪世のこと。すなわち末法の世。

 

邪智にして心諂曲に

日寛上人の文段には「これ正直ならざる故に邪曲(じゃごく)というなり。仁王の悪比丘、涅槃経の悪知識これなり」とある。

 

我慢の心

自分を恃(たの)み高ぶり、他をあなどること。ここでは慢心盛んにして、正法を行ずる者を誹謗・迫害すること。

 

本文

或(あるい)は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在(あ)り、自(みづか)ら真の道(どう)を行(ぎょう)ずと謂(い)いて人間を軽賤(きょうせん)する者有らん。

 

通釈

あるいは人里離れた山寺などで、袈裟などをまとい、閑静の場にあって、自ら真の仏法を行じていると謂って世間の人々を軽んじ賤しむ者があろう。

 

語訳

阿練若

無事・閑静処(かんせいしょ)という意味。僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)の輩が、静かな山寺等に居住して、正法を誹謗することをあらわす。

 

納衣

糞掃衣(ふんそうえ)ともいう。ここでは僭聖増上慢が人の尊敬を集めるため、わざと粗衣を着ることをあらわす。

 

空閑(くうげん)

阿練若(あれんにゃ)と同意で、人里離れた静かな所。

 

 

本文 

利養(りよう)に貧著(とんじゃく)するが故(ゆえ)に、白衣(びゃくえ)の与めに法を説いて、世に恭敬(くぎょう)せらるること六通(ろくつう)の羅漢(らかん)の如くならん。

 

通釈

これらの者は利益を貪(むさぼり)執着するため、在家の心にへつらって法を説き、世の人からはあたかも六神通を得た羅漢のごとく尊敬されるであろう。

 

語訳

利養(りよう)に貧著(とんじゃく)す

ただ自利自養のみを貪り執着すること。

 

白衣

釈尊在世のインドでは俗人は白衣を着たので、在家・一般社会のことをさす。

 

六通(ろくつう)の羅漢(らかん)

 六神通を得た阿羅漢(声聞の最高位)のこと。

六神通とは、

一に天眼通(てんげんつう)(なんでも見透せる通力)、

二に天耳通(てんにつう)(なんでも聞ける通力)

三に他心通(他人の心を見通す通力)

四に宿命通(自分や衆生の宿命を知る通力)

五に神足通(じんそくつう)(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)、

六に漏尽通(いっさいの煩悩を断じ尽くす通力)をいう。

 

 

本文

乃至常に大衆の中に在って我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士(こじ)及び余の比丘衆(びくしゅう)に向って、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん。

 

通釈

そして常に大衆の中に在って、正法の行者をそしろうとして、国王・大臣・婆羅門(ばらもん)(上流階級)・有力な信徒および他の僧侶などに向って、盛んに誹謗して正法の行者の欠点をさがし、「これは邪見の人であり、外道の論議を説いている」というであろう。

 

語訳

婆羅門

インド古来の四姓(カースト)の一つで、訳して浄行という。自ら梵天の口から生じ、四姓中の最勝最貴であると称する。

 

居士(こじ)

資産家、富豪のこと。また出家しないで仏門に帰依した男子の総称。

 

●爾前の位牌に「居士」とあるはこれか●

 

邪見

五見・十惑の一つで、因果の道理を無視した妄見をいう。

 

濁劫(じょくこう)

・劫濁(こうじょく)

・衆生濁

・煩悩濁

・見濁(けんじょく)

・命濁(みょうじょく)

ーの五濁に支配される時代のこと。

 

本文

濁劫悪世の中には多く諸(もろもろ)の恐怖(くふ)有らん、悪鬼其の身に入(い)って我(われ)を罵詈(めり)毀辱(きにく)せん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙(ひんじゅく)し、数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられん」上已。

 

通釈

濁悪の末法にはもろもろの恐怖がある。悪鬼がその身に入った者が正法の行者を罵しったり、辱(はず)かしめたりするであろう。末法の悪比丘は、仏の方便たる爾前経に執着して、正法を持つ者を悪口し、顔をしかめ憎んだりするであろう。また正法の行者はしばしば所を追われるであろう。

 

語訳

方便随宜所説の法を知らず

 仏は衆生の機根に随って方便の権数を説いたが、この方便権数と真実の法華経の区別を知らないこと。

 

顰蹙(ひんじゅく)

顔をしかめ憎むこと。

 

数数(しばしば)擯出せられん

たびたび所を追われること。

 

浅井先生講義

 国を亡ぼし人を悪道に堕とす悪比丘・悪知識とは、いったいどのような姿をしているのか、その姿を浮ぼりにして見せたのがこの法華経勧持品(かんじほん)である。

 「悪世の中」以下は道門増上慢、すなわち一般の悪僧侶の姿が説かれている。

 末法に上行菩薩が出現して三大秘法を弘める時、必ずこのような悪僧らが迫害することを釈尊が予言された経文である。

 さればここに醜面(しゅうめん)を浮べる悪比丘は、一往は法然であるが、再往は大聖人を怨嫉して死罪にまで至らしめた良観・道隆等である。

 この勧持品二十行の偈(げ)を身で以ってお読みになられたのは、全世界の中でただ日蓮大聖人御一人であらせられる。よって大聖人こそ釈尊の予言せる上行菩薩の再誕・内証は久遠元初の自受用身にてましますのである。

 

五、再び涅槃経を引き悪比丘を証す

 

本文 涅槃経に云く「我れ涅槃の後無量百歳に、四道(しどう)の聖人悉(ことごと)く復(ま)た涅槃せん。正法滅して後像法(のちぞうぼう)の中に於(おい)て当(まさ)に比丘有るべし、

 

通釈

 涅槃経に曰く。

 自分(釈尊)が入滅したのち、長い年月を経て、付法蔵の二十四人等のように、正しく仏法を弘める聖人も入滅しよう。正法一千年を過ぎて像法が終わり、すなわち末法の始めにおいて、必ず次のような悪僧が現われるであろう。

 

語訳

涅槃

ここでは入滅の意。

 

無量百歳

釈迦滅後二千余年をさす。日寛上人の文段には「仏涅槃の後二千年已後と見へたり」とある。

 

四道(しどう)の聖人

日寛上人の文段には「付法蔵の二十四人を指すか」とある。

 

像法(ぞうぼう)の中

 像法の中頃の意ではなく、像法の終り末法の始めの意。

 

本文

像(かたち)を持律(じりつ)に似せ、少しく経を読誦(どくじゅ)し、飲食(おんじき)を貧嗜(とんし)して其の身を長養(ちょうよう)し、袈裟を著(ちゃく)すと雖(いえど)も猶猟師(なおりょうし)の細めに視て徐(おもむろ)に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是(こ)の言(ことば)を唱えん、

 

通釈

 これらの悪僧は、外面はいかにも戒律を持っているように見せかけ、少しばかり経文を読み、飲食を貪(むさぼ)って我が身を長養し、形は袈裟をまとっているが、その心は猟師が獲物をねらってそっと近づくように、猫が鼠をうかがうように信徒のふところを狙い、ひたすら名利を求めている。

 

語訳

像(かたち)を持律(じりつ)に似せ

外面ばかり戒律をたもっているかのようによそおう。

 

飲食(おんじき)を貧嗜(とんし)して

 やたらとぜいたくな飲食を貪ること。

 

猟師の細めに視て徐(おもむろ)に行く

猟師が獲物を見つけて、細目で気づかれないように静かに近づくように、邪法の僧が金持ちの信者に取り入るさまを譬えたものである。

 

本文

我羅漢(われらかん)を得たりと、外(そと)には賢善(けんぜん)を現(あらわ)し、内には貧嫉(とんしつ)を懐(いだ)く、唖法(あほう)を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門(しゃもん)に非(あら)ずして沙門の像(かたち)を現じ、邪見熾盛(じゃけんしじょう)にして正法を誹謗せん」上已。

 

通釈

そして常に「自分は羅漢の悟りを得た」と高言するであろう。外面はいかにも賢人善人のごとく粧(よそ)おうが、その内心は貪欲と嫉妬心で充満している。法門のことを尋ねられれば全く答えられず、あたかも唖法の修行をしているバラモンのように黙ってしまう。これらは本当は僧侶でもないくせに僧侶の姿をしているのであって、邪見が盛んで正法を誹謗するであろう。

 

語訳

外(そと)には賢善(けんぜん)を現(あらわ)し、内には貧嫉(とんしつ)を懐(いだ)く

外面はさも賢く善人である風をよそおい、心の中では欲と嫉妬で充満している。

 

唖法

 婆羅門外道の修法の一種で、人に向ってものを云わず、唖(おし)のように沈黙を守る修行。ここでは邪宗の僧が、説法もできず、法門のことも答えられない様を、唖法の婆羅門に譬えた。

 

沙門

一般には出家した人の意。

 

浅井先生講義

 仏弟子の形をしたものが仏法を破壊する姿が、まことに明瞭である。彼らには成仏を願う道念などなく、我が身を長養す、世間の名利を得るために仏法を利用しているに過ぎない。このような輩は自己保身から、必ず正法の行者を怨嫉誹謗する。まことに法然および大聖人御在世の良観の姿が、鏡に浮べられているようである。

 

 

六、悪侶を誡めるべきを教諭す

 

本文

 文(もん)に就(つい)て世を見るに、誠に以(もっ)て然(しか)なり。悪侶を誡(いまし)めずんば豈(あに)善事(ぜんじ)を成さんや。

 

通釈

 以上の経文について日本国の僧侶を見るに、まことに以ってその通りである。かかる仏法破壊の悪僧を誡めなければ、どうして善事を成し得ようか。

 

語訳

 悪侶を誡めずんば

日寛上人の文段には「花の朝(あした)に嵐を厭(いと)い、月の夕(ゆうべ)には雲を厭う。もし謗法の悪侶を誡めずんば、何ぞ正法の善事を成さんや」とある。

 

浅井先生講義

 仏法は、外部の外道悪人等によっては決して破られない。仏弟子のごとくなる姿をしている者が、内部から正法を破壊するのである。これを獅子身中の虫という。

 客は国中の僧侶の外相(げそう)だけを見て仏法繁昌と錯覚したが、これら僧侶が、実は誹謗正法の獅子身中の仏敵たること、以上の経文で誠に明瞭となった。

 かかる謗法の悪侶をそのままにしておいて、正法の善事だけを成すことはできない。立正の前に厳しき破邪のあることを「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」の御金言に深く拝すべきである。

 

●この客が念仏の狂信者であったならば、憤りが怒りに変わり、すぐにでも出ていきたい気持ちになったであろう。この論は、大聖人御一人の卓越ゆえに、続いて行くが、時の執権北条時頼がどのような心境で読まれたのであろうか。怒りが怨嫉に変わってくことが今後判ろうものである。●

 

第四段 まさしく一凶の所帰を明かす

 

第一章 悪比丘とは誰人かを問う

 

本文

 客猶憤(きゃくなおいきどお)りて曰く、明王(めいおう)は天地に因って化(け)を成し、聖人(せいじん)は理非(りひ)を察して世を治(おさ)む。

 

通釈

 客は前にも増して憤(おこ)っていうには、およそ賢王(けんおう)は天地の道理に基いて民衆を化育し、君子は理非曲直を分別して世を治めるものである。

 

語訳

客猶憤(きゃくなおいきどお)りて曰く

 日寛上人の文段には「前には色を作(な)して粗(ほぼ)憤りて問う。今は猶(なお)前に倍して難ず。故に『猶憤りて』というなり。憤り未だ止まらざる故に猶というと謂うには非(あら)ざるなり」とある。

 

明王(めいおう)は天地に因って化(け)を成し

 明王とは賢い天子・国王。天地に因ってとは、天地の道理に則って政治を行うこと。

 

聖人(せいじん)は理非(りひ)を察して世を治(おさ)む。

ここにいう聖人とは、世を治むべき立場にある君子、理非を察してとは、よく物事の道理を分別することをいう。

 

本文

世上の僧侶は天下の帰する所なり、悪侶に於(おい)ては明王信ず可(べ)からず、聖人(しょうにん)に非(あら)ずんば賢哲(けんてつ)仰ぐ可からず、今賢聖(けんせい)の尊重せるを以て則(すなわ)ち竜象の軽(かろ)からざるを知る。

 

通釈

そして今、世間の高僧たちはいずれも国中の帰依を受けている。これら高僧が、もし悪侶であったなら判断力のある賢王が信ずるはずがないし、聖人でなかったならば世の指導者が仰ぐわけがない。いま、世の賢王・君子が尊崇(そんすう)していることを見ても、これらの高僧が勝れた法師であることがわかる。

 

語訳

世上の僧侶

世の中の僧侶の意で、大聖人御在世の当時の高僧たちのこと。

 

聖人に非ずんば

この聖人は前文と異なり、仏法上の聖人を意味する。

 

賢哲

在家の智者・学匠をいう。

 

賢聖(けんせい)の尊重せるを以て

日寛上人の文段には「賢聖(けんせい)すでに仰いで知る、これ正師なりという事を」とある。

 

竜象

勝れた僧侶。巨大で威力ある動物の竜や像を名僧にたとえていう。

 

本文

何ぞ妄言を吐いて強(あなが)ちに誹謗を成し、誰人(たれびと)を以て悪比丘と謂うや、委細に聞かんと欲す。

 

通釈

どうして妄言を吐いて強いて誹謗し、いったい誰人を指して悪比丘といおうとしているのか、くわしく聞きたいものである。

 

浅井先生講義

第四段は、国を亡ぼす悪比丘とは誰であるかを、まさしく明す段である。

客は、主人から”いま世間に仰がれている僧侶は実は正法誹謗の悪侶である、かかる悪比丘は誡めなければいけない”と云われたことに対して、ますます怒りを現わしたのである。

 客の思いは、そんなに悪い僧侶なら、世間の偉い人が仰ぐわけはないし、大衆が信ずるわけもない、したがって多くの人が尊敬していることは、その僧侶が勝れた聖人の証拠だ、ということにある。

 そこで”あなたは一体誰人を悪比丘といおうとしているのか”と詰めよるのである。

 

 この考えは今日でもよくある。有名人が信じ、大勢が信じているものは正しいと思う偏見である。一般世人は宗教の邪正を判断する基準を知らない。こと宗教に関しては全く”めくら千人”である。よって、世間にへつらい仏法を曲げる悪侶に簡単にだまされ、邪宗がはびこるのである。

「汝只正理を以て前(さき)とすべし、別して人の多きを以て本(もと)とすることなかれ」(聖愚問答抄下)の御金言こそ、頂門の一針である。

 

 

第二章 まさしく謗法の元凶を明かす

一、法然の選択集を文証として挙ぐ

 

本文

 主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然というもの有り、選択集(せんちゃくしゅう)を作る。

 

通釈

主人がいわく。

後鳥羽院の御代(みよ)に法然という者があって選択集を作った。

 

語訳

後鳥羽院

第八十二代後鳥羽天皇(1180年~1239年)のこと。承久の乱で敗れ隠岐の島に流されたことにより、隠岐の法王とも呼ばれる。

 

法然

日本の浄土宗(念仏宗)の開祖(1133年~1212年)。源空ともいう。母が剃刀(かみそり)をのむ夢を見て源空をはらんだという。選択集(せんちゃくしゅう)の邪義をあらわし、捨閉閣抛(しゃへいかくほう)といって法華経を誹謗した。その誹謗が甚しかったため、当時仏教界の権威であった叡山から糾弾され、承元元年(1207年)土佐に遠流され、死後も勅によって墓を掘り起こされ死骸を鴨川に流された。また選択集の印板も焼き払われている。

 

選択集

 法然の著わした謗法の書、選択本願念仏集という。その内容は、聖道門・浄土門・難行・易行・正・雑の二行を立て、法華経を聖道・難行・雑行の中に入れ、捨閉閣抛の四字を以って誹謗している。

 あまりにその邪義が甚しいので、当時においてすら並榎(なみえ)の定照(じょうしょう)の「弾選択(だんせんちゃく)」、斗賀尾(とがお)の明慧の「摧邪輪(さいじゃりん)」、「荘厳記」等によって破折されている。

 

参考

●大聖人は、謗法甚だしい法然死去後、10年目に御誕生である。しかし、浄土宗はいまだに存在して邪法を唱えているのではなかったか。あまりにも根深く、これが未来永劫続いていくのかと思うとぞっとするであろう。●

 

本文

則(すなわ)ち一代の聖教を破し、遍(あまね)く十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)を迷わす。

 

通釈

その中で彼は釈尊一代の聖教を破り、あまねく一切衆生を迷わせたのである。

 

語訳

十方

・東・西・南・北・東北・東南・西北・西南の八方に、上下二方を合わせて十方という。ここでは念仏が日本全土にひろまり、一切衆生を迷わせたことをいう。

 

本文

其の選択(せんちゃく)に云く

「道綽禅師(どうしゃくぜんじ)、聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、

 

通釈

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が聖道門・浄土門の二門を立て、聖道門を捨てて浄土門に帰すべしと説いた文があるが、

 

語訳

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)

 中国の浄土宗七祖の第四祖(562-645年)。著書に「安楽集」二巻があり、その文に「未有一人得者(みういちにんとくしゃ)」と法華経を誹謗した邪説がある。

 

聖道・浄土の二門

道綽が爾前経の中において、この二門を立てた。聖道門とは、この娑婆世界で悟りを開き成仏するための教えと修行。浄土門とは、この娑婆世界を穢土(えど)としてきらい、阿弥陀仏の本願にすがって往生することを目的とした教えと修行。しかるに法然はこの道綽(どうしゃく)の説を拡大解釈して、聖道門の中に法華経を入れ誹謗したのである。

 

本文

初(はじめ)に聖道門とは之に就(つ)いて二有(にあ)り、乃至之(ないしこれ)に准じて之を思うに、応(まさ)に

密大

及以(みつだいおよ)び

実大(じつだい)を存すべし、

 

 

通釈

(以下法然の私見)初めに聖道門とは、これについて大乗・小乗の二つがある。乃至、これに准じてこれを思うに、まさに密大(みつだい)(真言)および実大(法華)も聖道門に含まれる。

 

語訳

之に就(つ)いて二有(にあ)り

道綽の聖道門の中に小乗・大乗の二ありとして、法華経を聖道門に含むとした法然の私見。

 

之(ないしこれ)に准じて之を思うに

道綽が爾前経について政道門と浄土門を立て分け、聖道門を捨て浄土門に帰すべしと述べたことを、法然が拡大解釈して、聖道門の中に法華経を含めたときの言葉。

守護国家論に云く

「総じて選択集十六段に亘(わた)って無量の謗法を作す根源は、偏(ひと)えに此の四字より起る。誤れるかな、畏(おそ)ろしきかな」と。

この四字とは「准之思之」である。いわゆる法然の私見、拡大解釈はこれより始まる。

 

密大及以(みつだいおよ)び実大(じつだい)

密大とは真言、実大とは法華経。

 

本文

然れば則(すなわ)ち今の

・真言

・仏心(ぶっしん)

・天台

・華厳

・三論

・法相(ほっそう)

・摂論(しょうろん)

・此等(これら)

八家(ほっけ)の意正(まさ)しく此(ここ)に在るなり。

 

通釈

されば今の

真言宗

禅宗

天台宗

華厳宗

三論宗

法相宗

地論宗

摂論宗

ー等の八宗は聖道門であるから当然捨てなければいけない。

 

語訳

真言 

真言宗のこと。大日経、金剛頂経、蘇悉地経(そしつちきょう)を所依の三部経とする。教義は、大日如来に対すれば釈尊は無明の辺域、はきもの取りにも及ばずと貶(おと)し、また法華経を第三戯論(けろん)と下し、さらに一念三千の法門を天台宗から盗み、「理同事勝」の誑言(おうげん)を構えている。大聖人はこれを「真言は亡国の悪法」(秋元御書)と破折遊ばされている。

 

仏心

禅宗のこと。この宗は坐禅入定(ざぜんにゅうじょう)によってのみ自証体得(じしょうたいとく)できると説く。仏心を月にたとえ、経文を月をさす指にすぎない等といい、「経外別伝(きょうげべつでん)・不立文字(ふりゅうもんじ)」の邪義を立てている。秋元御書には、「禅宗は天魔の所為」と仰せである。

 

天台

天台法華宗のこと。わが国では伝教大師が入唐して、道邃和尚(どうずいおしょう)より天台の法門を伝承した。大師は桓武天皇に上表し、六宗を糾明した。このことにより天台法華宗は、日本の仏教界の中心となった。しかし第三・第四の座主、慈覚・智証によって真言の邪法に染まり、全く力を失なってしまった。

 

地論

地論宗。天親菩薩の「十地経論」によって立てた宗派。後に華厳宗に摂せられる。

 

摂論

 無著菩薩の「摂大乗論」によって立てた宗派。後に法相宗に属す。

 

 

本文

曇鸞法師(どんらんほっし)の往生論(おうじょうろん)の註(ちゅう)に云く、謹んで竜樹菩薩の十住(じゅうじゅう)毘婆沙(びばしゃ)を案ずるに云く、

 

通釈

曇鸞法師(どんらんほっし)の往生論の註には次のようにある。謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙(じゅうびばしゃ)を案ずるに云く、

 

語訳

曇鸞法師(どんらんほっし)

中国の念仏宗の開祖(476-542年)。浄土門七祖のうち第三祖にあたる。「往生論註」二巻、「讃阿弥陀仏偈(さんあみだぶつげ)」などを著わす。往生論に法華経を難行道として誹謗している。

 

竜樹菩薩

付法蔵の第十三。仏滅後七百年ごろ南インドに出て、おおいに大乗の教義をひろめた。「大智度論」百巻、「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」十七巻、「中観論」四巻などがある。正法時代の正師。しかるに曇鸞は、勝手にその説を曲会して用いた。

 

 

本文

菩薩阿毘跋致(ぼさつあびばっち)を求むるに二種の道有(どうあ)り、

一(いち)には難行道(なんぎょうどう)

二には易行道(いぎょうどう)なり、

 

通釈

菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道があり、

一には難行道

二には易行道

ーである。

 

語訳

阿毘跋致

不退転の境地

 

本文

此の中の難行道とは即ち是れ聖道門(しょうどうもん)なり、易行道(いぎょうどう)とは即ち是れ浄土門なり、

 

通釈

(以下法然の私註)この中の難行道とは聖道門であり、易行道とは浄土門である。

 

語訳

難行道とは即ち是れ聖道門(しょうどうもん)なり

竜樹の十住毘婆沙(じゅうじゅうびばしゃ)は法華以前の爾前について難易を分けたのであって、法然は勝手に法華経を難行道に入れ聖道門に摂し、これを捨てさせた。ゆえに日寛上人云く「豈(あ)に無間の業にあらずや、責めずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず」と。

 

本文

浄土宗の学者先ず此の旨を知るべし、設(たと)い先(さき)より聖道門を学ぶ人なりと雖も、若し将土門(しょうどうもん)を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有(こころざしあ)らん者は須(すべから)く聖道を棄てて浄土に帰すべし。

 

通釈

浄土宗の学者はまずこの旨をよく知るべきであり、たとえ前から聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門に入る志のある者は、すべからく聖道を棄てて浄土に帰依すべきである。

 

本文

又云く、善導和尚(ぜんどうわじょう)、正雑二行(しょうぞうにぎょう)を立て雑行を捨てて正行(しょうぎょう)に帰するの文、

 

通釈

また、善導和尚が正行・雑行の二行を立て、雑行を捨てて正行に帰すべしと説いた文があるが、

 

訳語

善導和尚

 中国の念仏宗第三祖(618-681年)。称名念仏を勤め、ついに「此身厭(いと)うべし、吾将(われまさ)に西に帰らんとす」といって、自ら柳の枝に首をつり、極楽往生をはかったが果たせず、腰骨を打ち砕き十四日間苦しみ抜いて臨終に悪相を現じた。

 

本文

第一に読誦雑行とは上(かみ)の観経等の往生浄土の経を除いて已外大小乗(いげだいしょうじょう)・顕密(けんみつ)の諸経に於て受持読誦(じゅじどくじゅ)するを悉く読誦雑行(どくじゅぞうぎょう)と名(なづ)く、

 

通釈

(以下法然の私註)第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除いて、それ以外の大小乗・顕密の諸経を受持読誦するのをことごとく読誦雑行と名づけるのである。

 

語訳

読誦雑行

日寛上人の文段に「五種の雑行あり。これ五種の正行に対する故なり。第一は読誦、第二は観察、第三は礼拝、第四は称名、第五は讃歎供養なり。今第一・第三を出す、読誦は経を謗ずるに在り、礼拝は仏に逆うに在る故なり云云」と。

 

観経

 浄土の三部経の一つで方等部に属する。詳しくは観無量寿仏経という。ここに「観経等の往生浄土の経」とあるは、これに無量寿経・阿弥陀経を含める。

 

本文

第三に礼拝雑行(らいはいぞうぎょう)とは上(かみ)の弥陀を礼拝するを除いて已外(いげ)一切の諸仏菩薩等及び諸(もろもろ)の世天等(せてんとう)に於(おい)て礼拝し恭敬(くぎょう)するを悉く礼拝雑行(らいはいぞうぎょう)と名(なづ)く。

 

通釈

第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて、それ以外の一切の諸仏菩薩等およびもろもろの世天等を礼拝し恭敬するのをことごとく礼拝雑行と名づけるのである。

 

語訳

世天

人界の神および諸天善神

 

本文

私(し)に云(いわ)く、此の文を見るに、須(すべから)く雑を捨て専を修(しゅ)すべし、豈(あに)百即百正(ひゃくそくひゃくしょう)の専修正行(せんしゅうしょうぎょう)を捨てて堅く千中無一(せんちゅうむいつ)の雑修雑行(ぞうしゅうぞうぎょう)を執せんや、行者能(ぎょうじゃよ)く之を思量(しりょう)せよ。

 

通釈

さらに私に結論すれば、善導の文を見れば、まさしく雑行を捨てて専修念仏を修行しなければならないのである。どうして百人が百人浄土に往生できる専修正行の念仏を捨てて、千人の中に一人も成仏できない雑修雑行に固執すべきであろうか。修行する者はよくこれを考えよ。

 

語訳

百即百正(ひゃくそくひゃくしょう)

弥陀を念じ、その名号を唱えれば百人が百人ともに極楽浄土へ往生できるという善導の邪義。

 

千中無一(せんちゅうむいつ)

浄土の教え以外は千人中一人も得道しないという善導の言。これを法然は拡大し、法華経をも千中無一と誹謗した。

 

本文

又云く、貞元入蔵録(じょうげんにゅうぞうろく)の中に始め大般若経六百巻より法常住経(ほうじょうじゅうきょう)に終るまで、顕密(けんみつ)の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし、

 

 

通釈

またいわく。貞元入蔵録(じょうげんにゅうぞうろく)の中には、始め大般若経六百巻より法常住経(ほうじょうじゅうきょう)に終るまで、顕密の大乗経すべて六百三十七部・二千八百八十三巻が収録されているが、これらは皆観経に説かれる読誦大乗の読誦を読誦大乗の一句に摂しせられている。

 

語訳

貞元入蔵録(じょうげんにゅうぞうろく)

唐の徳宗の貞元年中(785~804年)に、僧・円照が勅命によって選んだ経巻の種目。

 

大般若経

釈尊が方等部の次に説いた経文。訳には羅什三蔵訳の「大品般若経」四十巻と、玄奘(げんじょう)三蔵訳の「大般若経」六百巻がある。本文の意は玄奘訳の「大般若経」六百巻である。

 

本文

当(まさ)に知るべし、随他(ずいた)の前には暫(しばら)く定散(じょうさん)の門を開くと雖(いえど)も、随自(ずいじ)の後(のち)には還(かえ)って定散(じょうさん)の門を閉ず、一(ひと)たび開いて以後永く閉じざるは唯是(ただこ)れ念仏の一門なりと。

 

通釈

但し、まさに知るべきである。観経において、しばらく随他意(ずいたい)の前には法華経等の読誦を読誦大乗の一句に摂して定散(じょうさん)諸行の往生も叶うとして許したが、随自意(ずいじい)の後にいたってはこれを許さず、還(かえ)って諸行定散の門を閉じてしまった。一たび開いて以後永く閉じないのは念仏の一門だけである。

 

語訳

随他

衆生の機根に応じて説くこと。本来は無量義経に「性欲(しょうよく)不同、種々に説法す、四十余年未だ真実を顕わさず」とあるように、法華経を以て随自意とする。しかし法然は仏説によらず、浄土の三部経を以て随自となし、それ以外を随他とする邪義をここで述べている。

 

定散(じょうさん)

観無量寿経で極楽浄土へ往生する方法として、十六種の観法と三福(行善・戒善・世善)の修行を説く。この十六観のうち前の十三観を定善(じょうぜん)といい、後の三観および三福を散善という。しかし法然は、この定散ともに仏の随他の教えで末法のためでなく、この定散ともに仏の随他の教えで末法のための法であると主張した。これも法華経誹謗の邪説である。

 

本文

又云く、念仏の行者必ず三心(さんじん)を具足(ぐそく)すべきの文、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に云く、同経(どうきょう)の疏(じょ)に云く、問うて曰く、若し解行(げぎょう)の不同(ふどう)・邪雑(じゃぞう)の人等有りて外邪異見(げじゃいけん)の難を防がん、或(あるい)は行くこと一分二分(いちぶんにぶん)にして群賊等喚(ぐんぞくとうよ)び廻(かえ)すとは即(すなわ)ち別解(べつげ)・別行(べつぎょう)・悪見(あくけん)の人等(にんとう)に喩(たと)う。

 

通釈

またいわく。念仏の行者は必ず三心を具足しなければならないとの文が観無量寿経にある。同経の善導の疏(じょ)には、『問うて云く、もし念仏者と智解も修行も異り念仏をそしる人たちがあれば、念仏の行者はそれら外邪異見の難を防ぐべきである』あるいは『一歩か二歩しか進まぬうちに群賊等が呼びかえすとは、これ別解(べつげ)・別行(べつぎょう)・悪見の人が念仏修行を妨げることを譬えているのである』と。

 

語訳

三心

観経に「一には至誠心(しじょうしん)、二には深心(じんしん)、三には回向発願心(えこうはつがんしん)」とある。

 

同経の疏(じょ) 

善導の著わした観経の疏(じょ)のこと。

 

解行(げぎょう)の不同(ふどう)・邪雑(じゃぞう)の人

聖道門の人は念仏の行者と智解も修行もしてないから、解行不同といい、念仏をそしる聖道門の人を、邪雑の人としているのである。日寛上人の文段には「『解行の不同』とは、聖道門の解行は浄土門に同じからざる故なり。次の『別解・別行』もまた其の意なり。浄土門の外を別解・別行というなり」とある。

 

外邪異見(げじゃいけん)の難を防がん

念仏者以外を外道・邪見の者として、その難を防いで念仏を修行せよとの意。

 

群賊等喚(ぐんぞくとうよ)び廻(かえ)す

別解・別行・悪見の人、すなわち聖道門の悪見の人のことばに従うなど善導が念仏者に警告しているところであるが、法然は竜樹・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等の聖人を皆群賊の中に入れて誹謗している。

 

 

 

本文

私(し)に云(いわ)く、又此の中に一切の別解(べつげ)・別行・異学・異見等(いけんとう)と言うは是れ聖道門を指すなり」上已。

 

通釈

このことについて自分(法然)が思うには、この中の一切の別解(べつげ)・別行(べつぎょう)・異学(いがく)・異見(いけん)等というのは聖道門の人々を指すのである」

 

 

本文

又最後結句(さいごけっく)の文に云く「夫(そ)れ速(すみや)かに生死(しょうじ)を離れんと欲せば、二種の勝法(しょうぼう)の中に且(しばら)く聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば、正雑二行(しょうぎょうにぎょう)の中に且(しばら)く諸の雑行を抛(なげう)ちて、選んで応(まさ)に正行(しょうぎょう)に帰すべし」上已。

 

通釈

また選択集の結句の文において法然は

「それ、速かに生死を離れようと欲するならば、二種の勝れた法の中には聖道門を閣(さしお)き、選んで浄土門に入れ。なた浄土門に入ろうと欲するならば、正行・雑行の二行の中にはすべての雑行を抛(なげう)って、選んで専修念仏の正行に帰すべきである」といっている。

 

語訳

又最後結句(さいごけっく)の文

日寛上人の文段には「これ十六段総結の文なり。閣抛(かくほう)の二字の出処なり」とある。

 

●法華経を誹謗して悪臨終を遂げる念仏衆、今もなお根強く念仏を唱える宗派が存在している。それが日本文化を形成しているのである(寺社仏閣の数数の見映え含)。このままでは、何もしなくても日本は大日本帝国以来の危機を迎える可能性がある。

 

そして神社参りは、意識無意識に国家を不幸に導く力となる。

 

神社五芒星逆巡りは、危険である。現在、仏教が駄目であるから神社がよいのだという流れが齎されつつある(そういう風を感じる)。

仏教は、一乗に帰さねば国亡ぶが広まると、神社を押し出てしまうきっかけとなろう。

駄目仏教→神社隆盛→戦乱へと導かれる(またぞろ安倍晋三のような独裁者が現われる)→日本遂に滅亡して、新たな国が生まれるか。

 

まさに1930年創価学会の前身が立ち上がった時、仏法界の「法然」はダメだったということが、日本国内に衝撃を与え、遂に国家神道隆盛となり、第二次世界大戦を戦ったはよいが、諸天の逆鱗に触れて、見事に大敗北を喫したという歴史的事実。

 今回の「立正安国論」は、仏法界の駄目の部分を曝(さら)け出してあまりあろう。

あの創価学会(前身)の立ち上がった当時の記憶が蘇る。

 

歴史は繰り返されるとしても、どうすることもできん時代の流れか、滅びの日本を止める手立てはあるのか。

 

亡びぬ鍵は、いくつかある。これを実行するかどうかは、多くの国民の手にかかっていると言えるだろう。

扉を開ける鍵ではなく、閉める鍵が必要なこともその一つなのだが・・・●

 

●は小生

 FLASH

 

 

「とうとう夢の世界に」岸田首相「30年ぶり経済の明るい兆し」投稿に吹き荒れる憤慨…メーデーでは「帰れ」ヤジ飛んでもスルー

 

 

 スポーツ報知

 

 

【森永卓郎の本音】政権交代にワクワクしないワケ

 

 

毎日新聞

 

衆院補選、投票率は3選挙区とも最低 自民の擁立見送りも影響か

 

 昨日の国政補選は、自民党完敗で政権交代機運の「予言」は的中する可能性が出ている(既に低投票率を予言している知識人も存在している)。

 国民の多くは呆れ果てて投票所には行かずじまい。投票しないことにより、憤りの政治に訴えている国民感情といったところが実相であろう。

 政権交代は成る。しかしながら遅すぎるのだ。集団自衛の法律が通ったあの時こそ政権交代を早急に実施しアメリカの了解を得なければならなかった。白紙に戻して中立性を維持しますと訴えるのである。

 しかしながらズルズルと自民党を支持した多くの国民である。国防増税などあのときにもわかっていたはずなのだ。今更政権交代したとしても時すでに遅しではないか。

軍事増税は今後も過激化する可能性は否定できず。たとえ政権交代してもトランプ政権とうまくやっていかねば、彼はビジネスマンであるから、軍事でさえも取引となろう。米国の国益に叶わなかったら、既定路線は否定できんと思われるのだ。

 売国奴安倍晋三のために、国民が疲弊する。あまりにも遅すぎる気づきであり、もう少し前に、気づいてもらいたかった。しかしながら、安倍晋三は撃ち殺され、国の富は海外へ流出、自民党スキャンダルがなければ国民は気づかない。小生は2015年に気づいていた。あれから約10年の月日が流れ、遂に国民が気づきに入った。この国は狂いに狂っていく。アメリカ合衆国支配層は、日本国民の投票を最も恐れている。故に、多くの国民が自民党ではだめだったと示せば合衆国はこれを理解せずにはおられんはずだ。しかし、恐れるはマッチポンプである。長らく合衆国は自民党と付き合っている。自民党以外との付き合いがないために、どう取り扱ってよいのかわからずにいるといったところだろう。

どういう出方をしていくのかがわからんから、凪(無風状態)となって、思考し、結局は自民党に戻してしまおうという陰謀へと発展してゆくのではなかったか。

 政権交代は、合衆国と対等に相談できるあるいは、日本が主導できるチャンスである。これを阻止しようという勢力が出てくることはあるが、現在のバイデン政権も自民党のやり方に怒りを感じているらしい(日本政権の中枢者がトランプ前大統領に会いに行くというパフォーマンスによる)。

 これで、政権交代機運はますます高まってゆくのではないか。あるいは日本の支配層が、政権交代を望むためにパフォーマンスを実行したのか。

 自民党ではどうすることもできないほど困窮を極めている可能性がある。ゆえに、自民党議員は逃げ出したいのではなかろうか。あまりにも無責任だが、現在の日本政治の混乱は、今後どのような結果を齎すのか、危機的状況は打破できるのか。固唾をのんで見守るしかあるまい。既に経済はバブルとなっている可能性も否定できんのだ。

 

 Diamond Online

 

 

「15分でいったい何が話せるのか!」東尋坊の自殺監視人が行政に怒りをぶちまける理由
 

 人口減少が甚だしくなり、自殺もその減少に拍車をかけることになる。どうすることもできぬ宿命の流れに身を任せて命を絶つ。その宿命論によって、自殺仕方なしと看做しているのが多くの国民(感情)ではなかったか。

 正法を知らず、邪法の因に執着し、その過去世を背負った現代人。その「仕方なし」精神が、国をも包み込んでいる。

 その解決は仏法によるしかあるまいが、国を含めて知らぬ(正法を知らぬ)から何ら解決策が見出されぬ。

 今回は、現場、最前線からリアルな解決策が見出されているが、これを国が取り上げるのかどうか。

自殺は、不幸である。その不幸を少しでもなくすことは国の責務であろう。

地球温暖化は人々に不幸を齎す。これを少しでも止めることが国の責務であろう。

今までの国のすることは、見当違い。今後は、その見当違い、的外れを少しでも解消して、まっとうな政治運営を多くの国民は望まねばならんだろうに。

 

 

遂に公開

禍をもたらす扉を閉めるプロジェクト

 

仏法画 正法 第一章 諸天逆切~瞋りの怨嫉~


 

あらゆることは仏法よりこと起こること

 

 

主催 みどりの森

みどりの森公式ホームページ

 

 

FLYER3

 

2024年5月3日UPLOAD

遂に明日、5月5日午前0時頃スタート