『十一通申し状』
良観 祈雨に敗れる
この静穏は”大旱魃”によって破られた。文永八年(西暦1271年)は春から一滴の雨もふらず、野山に青色なく、作物はことごとく枯死(こし)する有様であった。焦燥にかられた幕府は良観に「雨の祈り」を命じた。
良観は喜びこれを承諾した。実は良観は祈雨においては超能力を持ち、これまでもしばしば雨を降らせた実績がある。このような超能力を「魔の通力(つうりき)」という。邪教の教祖などが人々をたぶらかすのは、すべてこの通力の類(たぐ)いである。天魔その身に入る者は「或は魔にたぼらかされて通を現ずるか」(唱法華題目抄)とある。
良観が祈雨(きう)を受諾したことを伝え聞かれた大聖人は、この祈雨につけて、彼の正体を露(あらわ)さんとされた。本来、雨の降る降らぬは成仏・不成仏とは関係ない。しかし法論を逃避する良観に対して、彼のもっとも得意とする祈雨で事を決せんとしたのである。
大聖人は「七日のうちに一滴の雨でもふれば良観房の弟子となる。もしふらなかったら余の弟子となるべし」(取意)との書状を送られた。
これを見て良観は悦び泣いた。よほど自信があったのであろう。さっそく良観は弟子百二十人を集め、旱天の下で頭から煙を出して祈った。
だが、七日たっても、雨は一滴もふらなかった。未練にも良観は「あと七日の猶予を」と哀請(あいせい)した。大聖人は承諾した。
再び良観の必死の祈りが始まった。人数は前にも増して諸宗の僧まで加わった。数百人の脳天よりしぼり出す声は旱天に響きわたった。が、落ちるは汗と涙ばかり。
●「落ちるは汗と涙ばかり」
この部分は、人気アニメーション作品『鬼滅の刃』岩柱:悲鳴嶼行冥(ひめじまきょうめい)の「涙」と関連させられよう。彼は数珠を持って常に泣いているのである。祈雨を行って、雨降らず。悲鳴をあげているが如くとなっている。但し、良観は律宗であり、南無阿弥陀仏ではない。ただ、関係していることは以下の通り明らかである。●
ついに十四日間、一雨もふらぬうえ、悪風だけが吹きまくったのであった。
良観は完敗した。
●松竹映画『日蓮』では、大聖人が祈雨によって、大雨を降らせることに成功しているのだが、少し脚色しているということであろう。●
もし彼にいささかの道念でもあれば、大聖人の弟子となったであろう。また一分の廉恥心だにあれば、身を山林に隠したであろう。
だが「悪鬼其の身に入る」の良観の胸に沸いた念(おも)いは、「この上は何としても日蓮房を殺害せねば・・・・」との悪念だけであった。
良観の讒奏
祈雨完敗の数日後、良観は日ごろ心を通じている念仏宗の行敏に、大聖人に対する法論申し入れをさせた。これを公場対決(こうじょうたいけつ)を逃げていることの取り繕(つくろ)いであると同時に、この法論を利用して”勝った勝った”と偽りの宣伝をしようとの魂胆からであった。
大聖人は直ちに返書をしたためられた。
「条々御不審(ごふしん)の事、私(し)の問答は事(こと)行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるゝの趣(おもむき)に随って是非を糺明(きゅうめい)せらるべく候か」(行敏御返事)
問答は大いに結構であるが、私的な法論ではなく、上奏を経たうえでの公場対決にすべしーと仰せられた。
良観の思惑ははずれた。彼は次策として、再び行敏の名を以て大聖人を告訴せしめた。背後で訴状を作ったのは良観・念阿(ねんあ)等の”生き仏”たちであった。
訴状には、大聖人が法華経だけを正として念仏・禅・律宗を破していることを批判し、加えて「凶徒を室中に集む」として、大聖人が武器を蓄え凶徒を集め不穏な動きを企んでいると訴えている。これこそ大聖人を国事犯・謀叛人に仕立てようとする陰謀であった。
訴状を受理した問注所は、大聖人にその答弁を求めた。大聖人は法義においてはその一々の理非を明らかにし、「凶徒を室中に集む」等の誣告(ぶこく)に対しては、これを厳しく打ち砕かれた。告訴は失敗におわった。
公場対決は逃避、祈雨は完敗、告訴も効なしとなれば、良観らに残された策は一つしかない。
それは、権力者に讒奏して、斬罪を実行させることだった。「生き仏」たちは見栄も外聞もなくかなぐり捨て、行動を開始した。そのさまは
「極楽寺の生仏(いきぼとけ)の良観聖人折紙(おりがみ)をささげて上(かみ)へ訴え、建長寺の道隆(どうりゅう)聖人は輿(こし)に乗りて奉行人にひざまづく。諸(もろもろ)の五百戒の尼御前等は帛(はく)をつかひて伝奏(でんそう)をなす」(妙法比丘尼御返事)と。
●建長寺:臨済宗 禅。 現在までに何度も火災に遭い焼失するも同じ寺として復旧してしまう寺。火災焼失は諸天の怒り(よほど諸天の嫌う経文を唱えているとみえる)とみれば、その怒り甚だ激しいと思わざるをえまい。●
さらに良観は権力者を動かすため、権閨(きり)女房(権力者の妻)や後家尼御前(ごけあまごぜ)たちに「日蓮房は日本が亡ぶようにと呪咀(じゅそ)している。故北条時頼殿・北条重時殿を無間地獄に堕ちたと悪口(あっく)している」等と讒言(ざんげん)し煽動した。良観に心酔していた彼女たちはこれを真に受け、権力者に申し入れた。
●「北条時頼殿・北条重時殿を無間地獄に堕ちたと悪口」の部分は、今にも通じるものがある。正法団体は、大石寺の直近の亡くなりし管長につき、臨終の悪相は無間地獄の相と悪口しているのである。歴史は繰り返す。この繰り返しが広宣流布近しの証明となるのやもしれん。御在世は逆縁広布、国立戒壇建立は順縁広布と心得よ●
「天下第一の大事、日本国を失わんと呪咀(じゅそ)する法師なり。故最明寺殿(北条時頼)・極楽寺殿(北条重時)を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾(ただしゅゆ)に頸をめせ、弟子等をば又或いは頸を切り、或いは遠国(おんごく)につかはし、或いは籠(ろう)に入れよ」(報恩抄)と。
つづく
●は小生