このブログは、仏法画 『正法 第一章 諸天逆切 ~瞋りの怨嫉~』を説明するものである。

大聖人御在世は、武家の世の黎明期、乱世前夜の政治体制であり、鎌倉幕府が日本国の政治運営をしていた時代である。

 

 久遠元初とは

 「いちばん大本の仏様」これが久遠元初の自受用身である。

一般世間でいうところの仏教の元祖はインドの釈迦仏という思い込みがあるが、これは有史3000年の歴史の中で見た仏教にすぎない。釈尊自身が経文において、数々の仏を説き明かしている。多宝如来・善徳仏・薬師如来・大日如来等々がそれである。大宇宙は広漠で、過去・現在・未来という時間軸、また十方という方向にわたって、数えきれないほどの仏が存在している。この諸々の仏のことを「三世十方の諸仏」という。

 これらの諸仏は、目的をもって出現されている。法華経・方便品に「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」と説かれているように、諸仏はそれぞれ重要な使命・役割をもって、その時代、その国土に出現しているのである。

 これらの諸仏のルーツをたどってみよう。すると、これらの諸仏は不思議とことごとく本源の一仏にたどりついてしまう。

この本源の一仏を「久遠元初の自受用身」と申し上げる。

 

 諸仏のすべてがこの久遠元初の自受用身の垂迹応化(すいしゃくおうけ)(本仏が衆生の機に応じて迹を垂れ、姿を変えて出現すること)なのであり、三世十方の諸仏なのである。ゆえに諸仏は久遠元初の一仏より生じ、一仏に帰趣(きしゅ)する。

 この趣(おもむ)きを天台大師は「百千の枝葉(しよう)同じく一根(いっこん)に趣くが如し」と説明している。本源の一仏を「本仏」といい、垂迹応化の仏を「迹仏」というインドの釈尊もこの迹仏に当たるのである。

 

 

仏法画5番目「久遠元初」はそのことを顕わしている。

 

仏法画⑤

 

久 遠

元 初

 

 久遠元初、久々遠々、遥か昔。久遠元初とは、無始の始めといわれる。それがどれほどの昔になるか、凡夫の思慮では理解不能であろう。法華経の寿量品には、釈迦仏の久遠の成道を「五百塵点劫(じんてんごう)」と、気の遠くなるような長遠の劫数を挙げて説き明かしているが、久遠元初はこの五百塵点劫をさらに遡ること久々遠々「復倍上数(ぶばいじょうしゅ)」(復上(またかみ)の数に倍せり)の大昔である。

 

塵点劫とは

計りきれないほどの非常に長い時間