「聖人の仰せ忘れ給うか」

 

 だがこの翌々月、平左衛門は熱原の法華講衆の頸を刎ねたのであった。このとき大聖人は、法華講衆の安危を憂えて鎌倉に上っていた日興上人に対し、平左衛門に最後に申し付けよと、次のごとく指示あそばされた。

「去(い)ぬる文永の御勘気(ごかんき)の時乃、聖人の仰せ忘れ給うか。其の殃(わざわい)未だ畢(おわ)らず、重ねて十羅刹(じゅうらせつ)の罰を招き取ると、最後に申し付けよ」(聖人等御返事)と。

 竜の口の時に大聖人が平左衛門に強かに仰せられた自界叛逆・他国侵逼の殃は、未だおわってない。重ねてその大罰を招き取るか―と大叱咤されたのである。

 この御断言また寸分違(たが)わず、この一年七ヶ月後の弘安四年五月(1981年)、大蒙古は重ねて日本に押し寄せてきた。

 今度の襲来はその規模の大なること、前回とは比較にならなかった。蒙王クビライは前回の経験をふまえ、今度こそ日本全土を蹂躙して属領にせんと、入念の態勢を整えた。

 その兵力は実に十四万二千人で前回の約六倍、軍船は四千四百隻、空前の大軍である。まさに「今度寄せなば、先にはにるべくもなし」(乙御前御消息)との仰せのとおりであった。

 蒙古軍は江南軍と東路軍に分かれて襲来した。東路軍は、対馬・壱岐に侵攻、主力の江南軍と平戸島で合流した。総兵力十四万二千・四千四百隻の大艦隊は、海を覆って平戸から鷹島へと東進。いよいよ本土進攻である。

 七月二十七日、先発隊が鷹島に上陸し、続いて本隊が上陸準備に入った。この上陸が完了して本土への侵攻が始まったら―日本は必ず亡びる。

 

 だが、その準備の最中、七月三十日夜半から吹き始めた暴風雨は、次第に激しさを増して翌日まで荒れ狂い、多くの軍船が破損してしまった。またしても大蒙古の軍兵は大風によって撤退を余儀なくされたのであった。

 なんという不思議の侵略か。兵力の上からいえば、日本はこのときすでに亡んだのである。大聖人の「国必ず亡ぶべし」の御断言は少しも違わず、日本を亡ぼすに足る軍兵は押し寄せたのであった。

  

日本が亡びなかった理由

 

 だが、日本は亡びなかった。それはなぜか―。

 これ実に、日蓮大聖人の絶大威徳と御守護による。

 平左衛門は大聖人の御頸を刎ね奉った。日本の柱を倒し奉った。ゆえに大蒙古は日本に襲来した。だが、御頸は刎ねて刎ねられず、柱は倒して倒されず、よって日本も亡んで亡びなかったのである。もし御頸が刎ねられていたら、日本は完全に滅亡していたに違いない。

 この御本仏の絶大威徳を

「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(下種本仏成道御書)の重大の御金言に深く拝すべきである。

 

 また日本は三大秘法が全世界に広宣流布する根本の妙国である。もしこの国が亡んだら、全人類が救われるべき仏法も破滅する。ゆえに

「若し此の国土を毀壊せば、復(また)仏法の破滅疑い無き者なり」(立正安国論御勘由来)と。

 すでに久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人ましまし、本門戒壇の大御本尊ましますうえは、義において日本はすでに仏国である。このゆえに大聖人様は日本を亡国よりお救い下されたのである。

 されば弘安二年の滝泉寺申状には

「聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駈(か)り催して敵舟(てきしゅう)を海に沈め、梵・釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在(ましま)さば、豈(あに)聖人を用いずして徒(いたずら)に他国の逼(せ)めを憂えんや」と。

 この御文を拝すれば、二度の蒙古の襲来において、二度とも不思議の大風によって蒙古軍が撤退したこと、そのゆえがよくわかるであろう。

 まさに諸天に申し付けて蒙古を襲来せしめたのも、また諸天に仰せ付けて日本を守らしめたのも、すべては大聖人御一人の絶大威力(りき)による。かくて大聖人は日本国の一切衆生を現当に御守護くだされたのである。

 日蓮大聖人こそ、日本国の一切衆生の主・師・親であられる。ゆえにその大誓願の仰せに云く

「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等と誓いし願、やぶるべからず」(開目抄)と。

 御本仏の大誓願のなんと堅固なる、大慈悲のなんと深厚なる、ただ頭(こうべ)を垂れ合唱するのみである。

 

 逆縁広布と順縁広布

 二度にわたる大蒙古の責めを見て、日本一同は心底から怖畏(ふい)し、震え上がった。そして一人残らず、日蓮大聖人の御名(みな)と南無妙法蓮華経を深く命に刻みつけ、未来に仏に成るべき種を下されたのである。これが御在世における逆縁広布の大化導であられる。

 そして未来には順縁広布の時が必ず来る。すべては大聖人御一人の大悲願力による。

このことを日寛上人は撰時抄愚記に

「逆縁に約せば日本国中広宣流布なり。況(いわ)んや如来の金言は、大海の潮の時を差(たが)えざるが如く、春の後に夏の来たるが如く、秋毫(しゅうごう)も差うこと無し。若し爾(しか)らば、終(つい)には上一人より下万民に至るまで、一同に他事を捨てて皆南無妙法蓮華経と唱うべし。順縁広布、何ぞ須(すべから)く疑うべけんや。時を待つべきのみ」と。

 

 ●ここに、日寛上人の書かれた論文の中で、重要な文証を見ることが出来る。それが「終」である。

順縁広布は、終のときということだ。それが、「今」なのか? ということである。

まず、今日ではない。明日でもなさそうである。おそらく今年中ではないだろう。

では、いったいいつなのか?

永遠の謎である。日本に首都圏巨大地震が発生したり、第三次世界大戦が勃発すれば、その「終(つい)」が急速に早まるということだけは確かだろうが、今のところ「今」ではなさそうではないか。●

 

やがて時がいたれば、必ず順縁広布は事実となる。ゆえに大聖人は諸法実相抄に

「未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」

 さらに上野抄には

「ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計(みはから)いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」と。

 時いたれば、大聖人が諸天に申しつけて客観状勢を作らしめ、同時に無数の地涌の菩薩を召し出だして戦わしめ、順縁広布となるのである。

 

『日蓮大聖人の仏法』冨士大石寺顕正会 会長 淺井昭衞 著

 

ー引用ここまで

 

 さて、今まで見てきたように、崇高な「戒壇の大御本尊」に纏(まつ)わる物語は、極めて「怒り」に満ちていることが理解できたであろうか。

 

 もう一度引用しよう。

 

 熱原の法難

 法華講衆の折伏弘通が進むにつれ、地元滝泉寺の院主代・行智を中心とした、激しい怨嫉が巻きおこった。彼等は幕府の権力者・平左衛門と連絡を取りつつ、法華講衆の潰滅を策した。ここに門下の信徒が受けた法難としては最大の「熱原の大法難」が起きた。
 弘安二年九月、官憲と結託した謗法者らは、日興上人の弟子・日秀の田の稲刈りを手伝っていた法華講衆の一同を、あろうことか「院主の坊内の稲を盗んだ」として捕縛(ほばく)し、直ちに鎌倉へ押送したのである。
 この法華講衆を鎌倉で待ち構えていたのは、平左衛門(へいのさえもん)であった。彼は大聖人の御威徳にはとうてい歯が立たぬことを知っていたが、その無念を、いま己れの権威で法華講衆を退転せしめ、晴らそうとしたのである。

 神四郎ら二十人は、平左衛門の私邸の庭に引き据えられた。平左衛門は法華講衆を睨(ね)めまわし、居丈高(いたけだか)に申し渡した。「汝等、日蓮房の信仰を捨てて念仏を唱えよ、そして謝罪状を書け。さすれば郷里に帰すであろう。さもなくば頸を刎(は)ねん」と。一も二もなく農民らは恐れ畏(かしこ)み、命乞いをするとばかり彼は思った―。が、平左衛門の卑しき想像は覆った。
 神四郎・弥五郎・弥六郎を中心とする二十人は自若として臆することなく、一死を賭して「南無妙法蓮華経」と唱え奉り、以て答えに替えたのであった。
 法華講衆の死をも恐れぬこの気魄に、平左衛門は顔色を失った。このとき彼の脳裏に浮かんだのは、八年前の文永八年(1271年)九月十二日、自ら兵を率いて大聖人を逮捕せんと庵室を襲った時の、大聖人の師子王のごとき御気魄(きはく)であったに違いない。
 気圧(けお)された思いはやがて憤怒に変った。彼はかたわらに控えていた次男の飯沼判官(いいぬまほうがん)に命じ、蟇目の矢を射させた。蟇目の矢とは、くりぬいた桐材をやじりとした鏑矢のことで、射ると「ヒュー、ヒュー」と音がする。彼は農民をこの蟇目で威(おど)し、退転させようとしたのである。
 飯沼判官の放つ矢は容赦なく一人一人を嘖(さいな)む。そのたびに平左衛門は「念仏を唱えよ」と威し責めた。
 しかし、一人として退する者はなかった。かえって一矢(いっし)当たるごとに唱題の声は庭内に高まった。
法華講衆はただ「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」の大信心に住していたのであった。
 あまりのことに平左衛門は驚き、蟇目を中止させた。そして法華講衆の代表たる神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を引き出し―ついにその頸を刎ねた。
 しかし、平左衛門は熱原の法華講衆の肉身(にくしん)は壊わせても、日蓮大聖人を信じ奉る信心は壊わせなかった。法華講衆の「一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず」の信心は、国家権力に打ち勝ったのである。
「師子王は百獣に怖(お)ぢず、師子の子又かくのごとし」(出世本懐成就御書)と。

 

―ここまで

 

 平左衛門の「怒り」はただならぬものがあることが判ろう。「憤怒」の心を抱かせたのだ。

そうして、法華講衆の頸を刎ね、その罰は諸天の怒りを買うのである。

 

 大聖人は、この法難を身延にて聴き及び、大聖人もまた怒りの心を持たざるを得なかった。

それが、以下の証文である。

 

だがこの翌々月、平左衛門は熱原の法華講衆の頸を刎ねたのであった。このとき大聖人は、法華講衆の安危を憂えて鎌倉に上っていた日興上人に対し、平左衛門に最後に申し付けよと、次のごとく指示あそばされた。

「去(い)ぬる文永の御勘気(ごかんき)の時乃、聖人の仰せ忘れ給うか。其の殃(わざわい)未だ畢(おわ)らず、重ねて十羅刹(じゅうらせつ)の罰を招き取ると、最後に申し付けよ」(聖人等御返事)と。

 竜の口の時に大聖人が平左衛門に強かに仰せられた自界叛逆・他国侵逼の殃は、未だおわってない。重ねてその大罰を招き取るか―と大叱咤されたのである。

 

瞋(いか)りと瞋りのぶつかり合いは、将来的に何をもたらすのか?

 

ずばり、「戦争」である。

 

 そうして、元寇、大蒙古の責めに日本は遭った。対馬、壱岐での大虐殺、日本人は「虐殺」の憂き目に遭うのである。これがもうじき同じことが起こらんとしているから、冨士大石寺顕正会が全国民に対し、憂いているのだ。

 

 現在の露国、ウクライナ戦争然り。これも怒りと怒りのぶつかり合いである。

これが、全世界に怒りを齎し、最終戦争へと誘(いざな)っている。

 この避けざるべき戦争勃発気運を止めるにはどうすればよいのか?

突き止め、突き詰めた答えが「扉」を閉めることであったのだ。

 

 そもそも、実在する崇高なる『戒壇の大御本尊』は、富士大石寺にましましている。

 その『戒壇の大御本尊』は瞋りに満ち溢れている。当然と言えば当然といえ、御在世の数々の法難を見れば一目瞭然、諸天善神の怒りを齎しているのである。上行菩薩が顕れること、久遠元初の自受用身が遂に東方に顕れることを御予言なさったは、釈迦仏である。その一大御化導が遂に成った。

 末法濁悪の世。怒りと怒りのぶつかり合いの世は、現世に大戦争を齎した。日本国内も然り、戦国時代では、群雄割拠などと言われて、縄張り争いに終始した戦(いくさ)が、過激、熾烈を極めていく。

 その大戦(おおいくさ)を齎したのが、秘蔵厳護しなければならなかった『戒壇の大御本尊』の妖気であろう。

以下に、秘蔵厳護の文証を挙げてみよう。

 

先のブログでは、以下の通りの文証がある。

 

 この弘安二年の「本門戒壇の大御本尊」こそ大聖人の「出世の本懐」であられる。ゆえに出世本懐成就御書に「去(い)ぬる建長五年(1252年)四月二十八日、乃至、午(うま)の時に法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年(1279年)なり。
 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其の中の大難申す計りなし、先々に申すがごとし。
 余は二十七年なり、其の間の大難は各々かつしろしめせり」と。
 釈尊・天台・伝教の三聖が出世の本懐を遂げられた年数と対比して、「余は二十七年なり」と仰せられている。すなわち末法の御本仏日蓮大聖人は、立宗より二十七年目の弘安二年に「本門戒壇の大御本尊」を建立せられ、ここに出世の本懐を遂げ給うたのである。

 

 この大御本尊こそ、本門寿量品の文底・最大深秘の大法の、まさしく実体であられる。

 ゆえに日寛上人は

「問う、文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘(みぐ)の大法、三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり」(撰時抄愚記)と仰せられている。

 佐渡以後、大聖人は強信(ごうしん)・有縁(うえん)の弟子等に数多(あまた)の御本尊を授与されている。だが、これらの御本尊は「一機一縁」といって、個人に授与されたものである。

 弘安二年の「本門戒壇の大御本尊」は、総じて全世界の一切衆生に授与し給うた大御本尊で、広宣流布の暁には国立の本門戒壇に安置される。この大御本尊こそ久遠元初の自受用身・日蓮大聖人の御当体であられる。

 日寛上人は、数多の御真筆本尊の中におけるこの「本門戒壇の大御本尊」の位置を「就中(なかんずく)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況(いわ)んや一閻浮提総体の本尊なる故えなり」(観心本尊抄文段)とお示し下されている。

 三大秘法のうち、本門の戒壇は立宗の時に唱え出されたが、その本門の題目の体(たい)こそ実にこの「本門戒壇の大御本尊」であられる。

 この大御本尊は、日興上人・日目上人・日道上人と歴代貫首(かんず)上人に次第相伝され、いま富士大石寺にまします。そして広宣流布・国立戒壇のその日まで、一切公開せず御宝蔵に秘蔵し奉るのが、日興上人以来の堅き定めとなっている。

 

また、平成30年8月号 『顕正新聞』の内容に以下のことが書いてある。

 

 <「密附」と秘蔵厳護」>

 

 ついでに言っておきますが、宗門の碩学といわれた第五九世・堀日享(ほりにちこう)上人(~1957年)は大聖人様から日興上人への戒壇の大御本尊の御付属は「密附」であるとして、次のごとく仰せられている。

 「開山上人は、これを弘安二年(1279)に密附せられて、正(まさ)しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて、特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、もったいない事である・・・

開山上人より三祖日目上人への富士総跡の御譲り状にも『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』として、戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある」(富士日興上人詳伝)と。

 この御指南で「密附」の意も「広布の日まで秘蔵」の意もよくわかりますね。

 

<唯授一人の法体付嘱>

 

 唯授一人の法体付嘱とはまさに本門戒壇の大御本尊のご付嘱なのです。

 戒壇の大御本尊は生身(しょうしん)の大聖人様であられる。この大御本尊を、大聖人から日興上人、日興上人から日目上人へ、さらに代々の上人へと密附されたのです。

 よって日興上人・日目上人の時代においては、今日の御開扉などというものはなかった。

 

 この大御本尊は、広宣流布の暁に建てられる本門戒壇に安置し奉るから、「本門戒壇の大御本尊」と申し上げる。この大御本尊を、時いたるまで秘蔵厳護し奉る。これこそが正系門家の最大事なのであります。

 

●開山上人=第二祖 日興上人●

―ここまで

 

 このように、秘蔵厳護し奉ることが、富士大石寺の習いであった。しかしながら、応仁の乱(戦国時代突入)が起こる以前とみているが、「御開扉」が始まった。そうして、怒りに満ち溢れる『戒壇の大御本尊』が世に開放されると、人心に怒りが齎され、意識無意識に怒りと怒りのぶつかり合いが、大戦に誘(いざな)うと小生は視ている。

 

 現在世然りである。たとえ、法華講員のみに『御開扉』を限定したにせよ、人々の心を惑わし、怒りを齎している。この『戒壇の大御本尊』の力用侮ることなかれ。過去には、謗法者がこの『戒壇の大御本尊』を一目(ひとめ)見ようと興味津々で内拝をしようとした。しかしながら、『戒壇の大御本尊』はこれを許さず。扉を固く閉ざし、結局のところ謗法者はその中を見ることはできなかったという不思議なる現象が実際に発生している。

 しかもその恐怖は、時の貫首(かんず)を辞任に至らしめている。これほどの仏力、法力があるだろうか。

 

 小生は、『御開扉』なるものを中止して、まずは、3年の時を見てみたいと思う。

その間に世界の情勢がどう変わるのかを見れば、閉扉の意味が理解できよう。

 

そのために、為すことは、以下の通りである。

現在進行中であり、そのことは、出来上がった後に書き綴ることとしよう。

 

 

●は小生

つづく